「自己責任論」批判
その当事者が負わなくてはいけない責任以上の責任を追及し批判し、「自己責任」として押し付け、非難する集団ヒステリーが、最近の「自己責任論」現象ではないかと思います。本来、「自己責任」は限定的な責任であるべきですが、無制限に「責任」が拡散し、非難がエスカレートしてしまうので、近代以降の社会の仕組みの中の「責任」ではないと思われます。

「自己責任」という言葉は、「自己」という言葉と、「責任」という言葉が、もっともらしく結びつけられていて、様々な解釈が可能です。最近の「自己責任論」現象でいうところの「自己責任」も、そのバリエーションの中にあります。それぞれの人が、それぞれの発想で、それぞれの思いをこめて使っているためか、「自己責任論」をもとに語っている議論には、すれ違いや摩擦がしばしばみられますが、おおむね共通した「自己責任」観があるのではないかと考えています。

「自己責任論」現象は、国あるいは全体が、個人のために何かをしようとする時、起こります。

「自己責任論」に基づく主張には、報道で伝えられる当事者の姿が、図々しいとか、態度が大きいとか、感謝が足りないという不快感をあらわすだけのレベルから、理性的な主張まで、幅広いものが含まれます。理性的な主張には、「なぜそこだけ」という不公平感に根ざす主張と、全体(=国)の利益に反するという正義をふりかざす主張があるように思われます。

このうち、感情的な当事者批判は、「論」をなしていないので、「『自己責任』論」と「論」をつけるべきものではありません。しかし、火がついてしまえば爆発してしまう強力な存在です。ひとたびヒステリックな反応が進むと、対処は不能になります。対処できないがゆえに、大衆を操作するターゲットになるような気がします。「自己責任論」現象の勢いを支える力があります。

一方、理性的な主張のうち、「なぜそこだけ」という不公平感に根ざす主張は、過去の不満や未来への不安が背景にあります。これは、過去の不満を解消する努力をするとともに、未来への不安を解消することで解決することが出来ます。例外や不公平な扱いをなくすことで解決できます。

この主張には、うまく対応することが可能だし、対応が必要です。表裏一体にねたみや不安があるものの、建設的な対応や誠実な対応によって満足されやすく、納得が得られやすいものだと思われます。

ところが、もう一つの理性的な主張は、簡単ではありません。全体(=国)の利益に反するという正義をふりかざす主張を、簡単に納得させて解決することは困難です。これは、全体主義に変化する可能性があり、将来的には、これが一番厄介ではないかと考えています。

この主張には、国(あるいは全体)と国民(あるいは個人)は一体であるという意識が強く出ているように思われます。しかし、その意識は、いわゆる「愛国心」とは異なるものではないかと思います。

我が国のように、実効的な支配がほぼ完全である国では、やくざや山賊、軍閥、ゲリラなどの勢力に「税金」を巻き上げられる心配はほとんどありません。そうした行為は不当なものとされる一方で、我が国では、国民は、正当に税を払い、自らが主権者となっています。

しかし、自らを主権者として位置付けるわりには、国を実体のある組織としてイメージすることができません。これは、あまりに支配が完全であるために、かえって国の実体を意識できなくなっているのではないかと思われます。

確かに、選挙権のような権利はあるものの、代議制度と官僚システムは、そんな権利をちっぽけなものだと感じさせるほど、強力と感じさせます。そうすると、実質的なかかわりは、税を払っていることだけになってしまいます。

税を負担しているという事実から、国を自分のものだと過剰に意識します。このため、支出に敏感になり、無駄を省くことが正しい方策だと感じています。特に、個人の経済状況も財政も悪いため、国が、自分以外の他人に対し何かすることを積極的に否定します。その否定の論理として、「自己責任論」が使われていると思います。

徹底した「否定」の論理をもっています。このため、不公平感と同じように対応しても無駄です。

その論自体には、具体的な提案はなく、中身は空っぽです。根拠も曖昧です。しかし、「否定」し、非難し続けることが正義です。そこに、感情的な批判が加わって、大きな盛り上がりをみせるのが、最近の「自己責任論」現象ではないかと思います。

国に負担がかかってしまうことは、全部、ダメです。国の前では、個人が何かを求めることはゆるされません。「ひとりは、みんなのために」は成り立つものの、「みんなは、ひとりのために」は「否定」されてしまいます。

これが、一瞬の一部の現象で済まされている分には、過ぎ去るのを待っていればいいことです。しかし、持続し強力になると、全体主義の亡霊が復活するのではないかと恐れます。

それは、杞憂であり、妄想に過ぎないと笑って下さい。しかし、全体主義は民主的な手続きの上に出現し、しかも、不幸な結末を迎える傾向にあります。注意を怠ってはいけないと思います。

「自己責任論」現象は、メディアによる大衆煽動と相互に影響し合うことになると思います。その結果、実体を感じられないこれまでの国にかわって、特別な国を仕立てかねないと感じています。無謬で、聖なる存在の国です。ただし、何もせず、無責任です。

しかし、「自己責任」論者には、国との一体感があります。その国を批判することは、「自己責任」論者を批判することであり、国に負担を求めることは、「自己責任」論者に負担を求めることです。

国に対し、国民一人一人の存在を矮小化して位置付けます。非難や否定がエスカレートしたなら、そのような国では、国民一人一人に負担と犠牲ばかり強いることになり、不幸な結末を迎えるでしょう。どんなに強烈で説得力のある主張であったとしても、「否定」には、中身はなく、未来や発展、成長を期待することはできません。

徹底的な「否定」の上に成り立つような小さな政府には警戒が必要です。無駄を省いた小さな政府とは、似て否なるものです。「否定」の上に成り立つような小さな政府は、一歩間違えると、政府を国民の不満からまもる大きな組織になりかねません。その大きな組織は、世論をコントロールする装置として様々に機能するのではないかと思われます。そして、愚かな政策によって奪うだけの政府が出来るのではないかと想像します。嫌です。

ところで、「自己責任論」現象における正義の主張は、強い不安の裏返しでもあります。強い不安が、強い願望に変化しているように思われます。その願望は、根拠や証拠のない見込みをひとり歩きさせます。未来が不確定であるということの耐えがたさからも開放してくれます。

この願望や見込みによって、他人に不都合なことが起こった時に、自分はそうならないと確信することができます。そこに「安心」を見出します。根拠や証拠のない確信ですが、自分にも起こりうるという事実を直視しようとしません。

その心理が、助け合いではなく、他人に「自己責任」を負わせます。加えて、国の正義をかざした「否定」の論理を組み立てる。それが、自分のこととして考えることができないから、エスカレートしてしまいます。

「自己責任論」現象で表面にでてきた感情的な批判も正義の主張も、今に始まったことではなく、元々あったのだと思います。ただ、落書き的にネットで匿名に発言できるようになって目につくようになったのではないかと思います。本気で発言している人もいれば、面白がってブームに乗っているだけの人もいます。

その発言は、匿名性を剥ぐと、とたんにおとなしくなる傾向があります。「自己責任論」現象の中での発言は、それほどの確信があるわけではないのかもしれません。受入れられるものとも考えてはいないのだと思います。しかし、影響を無視することはできません。また、匿名性を剥がしても、おとなしくする必要がなくなった時こそ、全体主義の誕生だと思います。

こうした流れに身をまかせていてもいいのかもしれません。急速な全体主義化なんて起こらないかもしれません。しかし、何もしないでいる限り、「否定」と不安に自己呪縛され、他人に「自己責任」を押しつけ、犠牲を強いるという形でガス抜きをすることしかできない社会になっていくように思われます。自力で立ち上がることさえ許さない極端な理屈もあるようです。絶望的です。

しかし、そこまで行かなくても、極端に欲望や希望の抑制を求める社会が出現する可能性があると思います。昨今の歪んだ「拝金主義批判」とからまって、「品質が悪いのに高いもの」に我慢しなくてはいけない国になってしまいます。卑近な心配かもしれませんが、深刻なことだと思います。

何かをしなくてはいけません。あいにく、正義をふりかざす主張に対しては、不安や不満の解消のための建設的な対応や誠実な対応を示したところで、対応にはなりません。それさえも否定されてしまいます。

まず、国への過剰な思い入れを解消する条件を作る必要があります。

政治がもっと身近にあって、自分が関わっているという確信がもてるような国を作らなくてはならないでしょう。同時に、経済的には、個人の不安感も少なく、財政問題も騒がなくてすむような状況を作らなくてはなりません。「税」を媒介に、「ひとりはみんなのために」だけでなく、「みんなはひとりのために」を信じられる状況を作らなくてはいけません。

難しいかもしれませんが、努力は必要です。その努力をしないと、「自己責任論」現象は続き、エスカレートしてしまうのではないかと思います。

翻って自分の責任。所有者としての責任を誠実に果たすよう努力しているつもりです。加えて、被った損害を取り返す努力もしています。

(追記)この文は、独創ではありません。もとのマンションに泊まって行った友達が、その際に置いていった『「経済人」の終わり—全体主義はなぜ生まれたか』P.F.ドラッカー (著), 上田 惇生 (翻訳)を、参考にしています。とりわけ、「否定」という発想は、この本に影響されています。民主党の前の執行部時代のやり方にも重なると思って、悲しく思っていました。また、今の政権の「改革」も、一歩間違うと、そのような方向に進みかねないと思います。
[PR]
by gskay | 2006-04-26 12:01 | いろいろ