紙一重 (「自己責任論批判」批判 −「エリート待望論」批判として−)
自己責任論が手強いのは、「自己責任論を掲げる人が国との一体感を過剰にもち、根拠のない思い込みや願望で不安を打ち消しながら、『否定』によってあらゆる問題を片付けようとする」論理であるからと考えました。全体主義に対する警鐘をならしたドラッカーの論考を参考に、おそろしいことを想像しています。

自己責任論者の「否定」の論理は、あらゆる問題を「否定」によって片付けるという点と、根拠や証拠より、思い込みや願望をもとにしている点で、破綻を指摘するのは簡単なことです。

しかし、彼らを論争で説得し、納得させるのは不可能です。彼らにとっては、正しさよりも「信念」が重要であり、その「信念」に忠実である自分が大切だからです。説得不能という点で、やっかいな存在です。現実と乖離してエスカレートしやすい点も危険です。

同様に、「なぜ、国を訴えないのか!」という国を糾弾する主張も、背景には国や個人のあり方への偏った見方があるような気がします。こちらも、強硬な信念を持っていて、手強い主張だと思います。

いずれも、国の力や意義、存在を過大に捉えていながら、信頼していません。また、個人に無力感を感じ、不満や不安を感じているように思われます。いずれも民主的な仕組みの中にいながら、民主的な仕組みになじみにくい存在です。

ところで、最近、エリートや英雄による支配に対する願望があるような気がします。衆愚であったり、利己的であったり、腐敗していたりという民主的な仕組みの病巣への処方箋のつもりなのかもしれません。

しかし、「エリート待望論」は、「自己責任論」や「国への糾弾」と方向性や結論が少し異なっているにすぎないような気がします。「自己責任論」による「否定」の主張や、「国への糾弾」の主張が、「エリート待望論」に転換しただけのように思われます。

「自己責任論」も、「国への糾弾」も、「エリート待望論」も、民主的な仕組みの上に組み立てられていながら、民主的な仕組みへの絶望があり、全体(=国)に対する視点も、個人に対する視点も歪んだものがあるような気がします。

国がよくなれば、「理想」は実現できると考えていて、国の力や意義、存在を過大に捉えている点は、いずれも同じです。しかし、現状には不安や不満を抱いています。期待を達成できないにもかかわらず存在し続ける国のあり方に懐疑的で、その国を支える民主的な仕組みを信頼していません。

また、ほとんどの個人を無力なものとみなしている点も同じです。自分自身への過剰に偏った意識がある一方で、自分以外の他者を軽視し、他者を機械じかけの機能だけの存在のように見ているような気がします。

この共通の基盤に加えて、「エリート待望論」には、自分にとって都合のよい他人への依存があります。ほとんどの他人は役に立たないが、一部には、都合のいい人がいて、そうした「エリート」に無制限に無批判の信頼を寄せるという態度です。

エリートによって導かれるユートピアに「極端な理想」を描くのは古今東西にあるものです。しかし、理想的な展開は難しいように思われます。実現が難しく、維持が困難。簡単に暴政や圧政になってしまう。だからこそ、「願望」のままにとどまっているのではないかと、私は、そんな「極端な理想」が実現されそうもない状況を肯定的に思います。

民主的な仕組みの元では、「極端な理想」を目指す人は、「理想」が実現していないのは、衆愚のせいだと考えがちで、民主的な仕組みを批判します。しかし、実は、「衆愚」を味方につけることに成功すれば、「願望」は達成されてしまいます。

目の前にある民主的な仕組みは、「極端な理想」を「願望」のままにとどめるための積極的な仕組みや障害ではなく、「願望」のままの状態にとどまっている状態にすぎない消極的なものかもしれません。

「自己責任論」による「否定」にしろ、「国への糾弾」にしろ、現状への批判や不満のあらわれで、そこに打開策としての「エリート待望論」が結びつき、「極端な理想」を狂信する土壌が整いつつあるように思います。

今、民主的な仕組みによって、人を踏みにじるような非民主的な仕組みが達成されてしまうという「悪夢」が再現されやすくなっているような気がします。そうした「悪夢」が予感されるからといって、議論を封じてしまうことができないのも、民主的な仕組みです。

しかし、この「悪夢」の再現を防ぐ努力は可能だと思います。

それは、「自己責任論」や「国への糾弾」、「エリート待望論」と、「紙一重」であると思います。

もちろん、不安や不満の解消ができるのなら、それが一番です。しかし、無理が多いかもしれません。

一方、国や公に対する見方を根本的に問うことや、自己のあり方や他者へのかかわりを問うことが必要だと思います。現状の問題について、国を「無制限」に極大化して考える一方、個人を矮小化し、不安や不満を増幅しています。「無制限」という前提からくる偏った極端な見方を取り除く必要があると思います。

ただ、これも、簡単なことではないでしょう。説得は、あまり有効ではありません。ひとたび、その思考パターンに陥ってしまうと抜け出しにくくなり、破局まで進んでしまうこともあるのではないかと思います。

そのように心得た上で、高度に教育された専門家や知識人の役割を期待したいと思います。

現在のところ、高度に教育された専門家や知識人が、遠慮しすぎていたり、無責任になっていたりするような気がします。これまで、専門家や知識人が、民主的な仕組みの中で、説明や説得をないがしろにし、納得というプロセスを軽視し、無為に過ごしてきたような気がします。その無為の隙間にメディアが入り込み、能力や役割以上の地位を占め、混乱に拍車をかけてきたような気がします。

まるで魔法使いへの信仰のような歪んだ認識に基づく「無制限」の「エリート待望論」は、妥当なものだとは思いません。そんな魔法使いはいません。しかし、魔法使いではないものの、高度に教育された専門家や知識人は、現実を語り、限界を語ることができます。そこに耳を傾けることができれば、しかるべき目標をみつけ、不満や不安の質を変化させることができるのではないかと思います。

もちろん、「限界」をこえ、想定されていない領域に踏み込んだ時には、誰にもわからなくなります。その時こそ、「理想」や「理念」を問うことが必要になるのだと思います。逆にいえば、想定されている状況下であるならば、いたずらに不満や不安におののいてはならないということになると思います。

しかし、その「限界」をこえてもいないうちから、不満や不安への恐怖の裏返しとして、「理想」を持ち出し、思い込みや偏見で現実を無視し、人の話を聞けなくなっている現実があるように思います。いたずらに焦り、それが、ますます「限界」を低くし、不満や不安を煽り、議論を陳腐にしていると思います。

そして、「無制限に極大化した国」、「矮小化された個人」、「魔法使いや救世主としてのエリート」という妄想を生み、「自己責任論」や「国への糾弾」、「エリート待望論」という形をとっているように思います。私には、これが、いつか、狂信的な方向に進むのではないかという「質の違う別の不安」を感じます。

本来、「自己責任論」や「国への糾弾」、「エリート待望論」は、「悪夢」を実現しようとする思考ではないのだろうと思います。それを口にする人は、高い理想をもった誠実で善良な人だろうと思います。ただ、少し心配性であるばかりか、現実から距離が出来てしまったばかりに、悲劇に向かいかねない思考をもってしまったのだと思います。

そうした思考で埋め尽くされる前に、「限界」を高く保つような努力が必要だと思います。そして、それを正しくアピールしなくてはならないと思います。現実を知ることや、限界をわきまえることだけで、冷静になり、無意味な軋轢を避けられると思います。そして、信頼や安心を回復することにつながると思います。

同時に、「理想」を語れる環境を整える必要があると思います。一度、限界を突き抜けたら、問題を乗り越えるために、「理想」をめぐる徹底的な議論をする必要があると思います。

「理想」は誰もが持っています。多分、人によって様々です。このため、「理想」と「理想」はぶつかりあうものかもしれません。ここで、自分の「理想」を主張することに血眼になりがちです。しかし、他人の「理想」にも耳を傾けることができる状況は、自分の「理想」に固執している状況よりも「理想的」ではないかと思われます。

まっ、これも、ユートピアだと言われてしまうかもしれません。

そうそう、不満や不安、恐怖がなければ、思考を走らせる意欲も湧かない状況になるかもしれません。そういう感情がわかないようにコントロールできれば、そこは、幸福なのかもしれません。よく、映画や小説に描かれる世界です。ただ、もうすでに、不満や不安、恐怖が存在し、問題を突きつけられている以上、そんなコントロールはできないだろうと思っています。
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by gskay | 2006-05-01 14:43 | いろいろ