技術の問題/制度の問題
耐震偽装を見抜けなかった原因として、「官から民へ」の流れがあったという議論が行われて来ました。しかし、問題は、民のモラルにあるのではなく、技術の側にあったのだと思います。また、チェックにチェックを重ねるという注意を怠らせるような制度も問題だったと思います。

偽装した本人の責任は言うまでもない事かも知れませんが、厳密にいえば、建築の全体にとっては、設計事務所の下請けにすぎません。北海道のケースで議論になったように、その責任がどれほど重いのかは微妙な問題だと思います。

設計図が正されることなく、最終的な違法建築の完成にいたるには、設計事務所、建築主、建築確認などを行う検査機関、施工、監理という責任ある関係者が関与しています。責任のなすり合いが続く中で、建築確認を行う機関が機能していなかったことが重視されました。建築確認が安心の源だとみなされていたのだと思います。

しかし、昨日保釈された元支店長は、自らの見落としの責任について反省の弁を明らかにしています。かつて、元支店長も建築確認の重みを尊重していました。しかし、その仕組みに裏切られた結果を、真剣に受け止めているのだと思います。

もし、設計の問題を見抜く能力があり、かつ、建築確認を疑うという意識を持っていたなら、このような事態にはならなかったかもしれません。防ぐ事ができる重要な位置にいたということを、自らが受け止めているのだと思います。

技術的に言えば、見抜くのは無理だったと思います。再計算に要する時間とコストを考えるとナンセンスだったと思います。(達人の眼力やカン、超能力者の特殊能力は別として)

法的に負わなくてはならない責任についても曖昧だと思います。建築確認によって適法であることが確認されてしまったことに対し、積極的に見直しをしなくてはならない制度とはいえません。

技術的に困難な問題に対し、責任の所在を曖昧にしてしまう制度が続いて来た挙げ句の出来事だったのではないかと思います。

元支店長は、陳腐になってしまった建築の制度に様々な面から翻弄されているように思われます。元支店長は、不注意と言えば不注意です。私は、それを心の底から責める気にはなれません。
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by gskay | 2006-08-09 16:41 | 揺れる システム