どうしても無責任になってしまう背景
公的な部分について突き詰めて考えると、強い裁量を許された国の行政のあり方が問われるべきだと考えています。強い裁量自体に対しては、私は、肯定的でも否定的でもありません。ただ、無責任な体制であるにもかかわらず、強い裁量が許されているという点には疑問を感じます。そして、耐震偽装に関わる様々な問題の元凶であるばかりか、事態が拡大したり、深刻になったりする原因になっていると思います。

無責任な体制には二つあり、そもそも責任関係がデタラメな体制と、責任を問われる場合にもごまかしがまかり通る体制とがあるように思われます。

建築の場合、責任関係がデタラメという側面が強いと思います。国の行政には、強い権限が与えられている一方で、無謬であるという前提があるようで、問題発生時の責任の所在がはっきりしていません。

誤謬をおかしようがないような業務であれば、何も問題ないのかもしれません。現在の体制の元が作られた戦後復興のころの状況は、それで充分だったのかもしれません。

しかし、今は違います。建築は巨大なものになり、高度なものになりました。それを規制したり、指導したり、認めたり、許可したり、取り締まったりという業務の責任は重大であるばかりか、高度になって難しくなっています。

本来なら、もっと早く責任関係を整理しておくべきでした。しかし、それがなされないままここに至ってしまいました。考えられている法律などの改正も、従来の意識を出ていないように思われ、残念です。

ところで、ごまかしがまかり通る体制ということだとしたら、話は別です。本来、行政の責任は、言論や国会によって厳しく追及されるべきものです。

たしかに、旧憲法の枠組みであれば、行政がある程度強引なことを進めることも可能であり、超越した存在であることも不可能ではなかったと思います。しかし、今の憲法の仕組みは、それとは異なっているのではないでしょうか。

旧憲法での行政のあり方の延長上に、強い裁量があるように思われます。本来、それをチェックしたり抑制したりする機能が国会には備わっているはずです。与党と野党の対立ということではなく、行政を担う官僚を、内閣が管理し、国会が監視するという仕組みであるはずです。責任はそこで追及されるはずでした。

しかし、どうも上手に機能してはいないように思われます。責任を問う仕組みが機能不全になっている以上、ごまかしは簡単です。むしろ、自律が求められていた時代よりも、状況は悪化しているかもしれません。

今回の事件について、ごまかしがまかり通っているかどうかはわかりません。ただ、国の行政の責任という点については、無責任な部分が多いと感じます。不適切な点もあると思います。しかし、もともとのデタラメさに加え、ごまかそうと思えば簡単な体制になってしまっているため、その責任を問うのは容易ではないようです。
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by gskay | 2006-10-25 21:23 | 政治と役所と業界