コメンテーター
無責任なコメンテーターの存在が報道番組のあり方をゆがめていると思います。あたかも、多角的に論じているように画面には映ります。しかし、そのコメンテーターの無責任な存在が、真実を遠ざけているように思います。

傾聴に値するコメントも、少なからず含まれています。しかし、ほとんどが、充分な勉強を伴わないその場しのぎのコメントで、先入観や予断、偏見を披露しているに過ぎないような気がします。短い時間に短いコメントを求められるせいか、分析が不十分。そして、非論理的であるにもかかわらず、極端に単純化され、断定的です。

残念ながら、まともなことを言おうとしている人ほど、冗長な発言になり、あたかも準備不足で無能であるかのようにみえてしまう。さらに、自分の理性に誠実にものごとを追究しようとすれば、断定的な発言からは遠ざかり、複雑な理屈で、わかりにくいコメントが多くなってしまいます。

真剣に論じようとすればするほど、時間もかかり、面白くない。時には、落ち着きがなく、自信がなさそうに見えて、見るに忍びなく、むしろ、馬鹿にされてしまう。あるいは、素直ではないとか屁理屈だと反感を持たれる。しかし、そんな中から、発展的なまともなコメントが出て来るのだと思います。

その一方で、受け手の理性ではなく、心理や感情に訴える断定的な短いコメントが、よいコメントとして好まれているような気がします。単なる感情や直感によるコメントにすぎなくても、受け手の先入観や予断、偏見に訴えかけ、共感を得るようにすればいい。あやふやな感じをなくすためには、なるべく極端な表現で単純化し、断定的に表現すれば、深く考えるまでもなく受入れやすい。しかも、自信たっぷりに発言できれば、信頼感が増す。

大抵の受け手は、わかったような気になり、面白いと感じることでしょう。しかも、受け手の先入観や予断、偏見を肯定すれば、視聴者の声を反映しているかのように見せかけることができ、支持も得られるのでしょう。複雑な論理を遠ざけられ、自分の思い込みを肯定される受け手にとっては、心地よいものだと思います。

しかし、それで、受け手の理解が深まっている訳ではありません。楽しんだだけです。にもかかわらず、理解が深まったと勘違いする。

こうした無責任なコメントと、恣意的な編集画像の相乗効果によって、先入観や予断、偏見の再生産が行われてしまっているような気がします。再生産により、抑制がなくなり、方向を誤り、真実を遠ざける。その再生産は、ある日、関心がなくなって取り上げられなくなる日まで続いて、無反省に消滅する。

誤りも含まれているかもしれないが、そんな事はお構いなし。時間が経てば、みな忘れるし、問題になったら、そのコメンテーターを叩いたり、真相をにぎる悪者に騙されていたといえばいいだけのこと。それで、もう一度、番組を盛り上げることができるし……。

ワイドショー以上になれない報道番組ばかりになっている原因として、コメンテーターの存在が大きいと思います。映像の恣意的な編集と並んで、報道番組の問題点ではないかと思います。

コメンテーターの存在自体は否定しません。しかし、いつの間にか、使い方を間違え、中途半端なエンターテイメントになってしまいました。真のエンターテイナーでもなく、ジャーナリストでもなく、スペシャリストでもない存在です。そうした存在を使い続ける番組作りは、そろそろ限界のような気がします。

お笑いであれば、非論理的で単純で断定的なコメントに、価値があります。意表をつけば、「ボケ」として笑いのもととなります。さらにツッコミによるわかりやすい否定により、笑いに拍車をかけます。そこに繰り広げられる変な理屈は、笑いとして肯定されます。面白ければ、いいのです。そのためには、わかりやすい必要があります。

報道番組でのコメントも、これと同じレベルで捉えられているような気がします。そして、わかりやすさの延長に真実があるという錯覚があるような気がします。あるいは、真実よりも、わかりやすさに価値があると思われているような気がします。

わからないということを理解したり、不確かであるという事実を理解することの意義をないがしろにしたままであるような気がします。わかりやすい社会は、心地よい社会なのかもしれませんが……。
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by gskay | 2006-01-21 17:10 | メディアの狂騒