戦後レジームの弊害としての耐震偽装
官僚の裁量が放置されていても、問題さえ発生しなければ、こんなことを気に懸ける必要はなかったと思います。もっとも、私などが気付くような表面的な問題の有無にかかわらず、政治家の一部や学者の一部からは、とっくの昔に問題が指摘されていたことですが……。

官僚機構には格別に優秀な人材が結集しています。何もなければ、その根拠はともかく、信頼し、依存し続けることができたかもしれません。今は、それが出来なくなっていると思います。

ところで、耐震偽装をひきおこすことになった建築のシステムをさかのぼると、現在の制度の原点は、田中角栄の議員立法にさかのぼるようです。建築技術者としての田中角栄が手がけた法律体系ということもできそうです。建築基準法をはじめとした建築関係の法律は、その後、度重なる改正を経て、今日にいたります。一連の改正には、耐震偽装の元凶になった変更も含まれています。

もし、若き日の田中角栄が健在であったら、こんなにいびつな制度にはならなかったのではないかと思います。田中角栄自身は、官僚に相当な部分までを任せていても、完全に官僚任せにすることはなかったように思われます。単に、他人任せにできない性格だっただけかもしれませんが……。

田中角栄本人でなくても、第二、第三の田中角栄が現れていれば、少なくとも、建築の制度については、政治家主導で変えていくことができたと思います。きちんと修正できる政治家がいてくれれば、それが可能な余地はあったと思います。

しかし、歴史の流れはそうはなりませんでした。きちんと制度を構想することができ、かつ官僚を掌握することができる政治家が続かなかったのか、結局、制度は官僚の主導になりました。そして、官僚主導のシステムに、政治家が添え物として便乗しているというシステムになってしまいました。これが、田中型の利権のシステムとして認識されるシステムではないかと思います。

田中角栄は、政治家主導を実践してみせはしたものの、官僚の無制限の裁量という問題には、踏み込んだわけではありません。おそらく、彼の個人の才能が、官僚の無制限の裁量さえも超越していたのだと思います。

あいにく、以後の政治家は、田中角栄のような才能を持ち合わせてはおらず、中途半端な形で利権に関わるようになり、官僚の言いなりになりながら、利権を複雑で肥大化したものにしてしまいました。

表面的には、利権のシステムを「戦後レジーム」とみなすことができると思います。しかし、この利権に潜む不公正さとは別の問題として、システムが陳腐になって、耐震偽装に象徴されるような機能不全をおこしているということを見過ごしてはなりません。

田中角栄が構想した建築のシステムは、復興期の日本の建築を、性能的に向上させようという趣旨が含まれていたと思われます。しかし、いつの間にか、全く異なった統制の仕組みに変質してしまいました。その統制の根幹は、さも、技術的、科学的な合理性を持ち合わせているかのようにみえますが、実際は、技術の進歩から取り残された官僚の場当たり的で恣意的な裁量にすぎなかったというのが、耐震偽装に象徴される建築のシステムの問題点です。

耐震性能の評価方法については、国土交通省が科学的には的確とは言いがたい方針を出してしまっていたようです。辻褄あわせに困ることがいっぱいです。偽装の温床になったコンピューターソフトの問題については、大臣認定というものの意義をみごとに貶めてしまいました。いずれも、きちんと技術を理解した上で判断すべきところを、おろそかにしていると思います。

そんな杜撰なシステムであっても、とても強い縛りのあるシステムになっています。杜撰さが明らかになればなるほど、縛りが強い制度になってしまっているように思われます。性能向上をめざすという建前があるために、誰もが遵守せざるをえませんが、その中身の的確さも議論の余地があり、手続きについても疑問が残るシステムになってしまっています。そして、とりわけ曖昧なのが、その縛りの主体の責任です。

官僚主導によって判断された内容は、官僚によって判断されたゆえに、正しいものだと認識されて来ました。官僚が無謬であるという前提が不可侵なら、それに従うことができました。しかし、官僚が無謬などというのは幻想です。実際、建築については、杜撰なシステムしか構築されていませんでした。

これが明らかになったとしても、責任を率直に認めることができないのが、官僚のシステムです。そもそもの権力の根拠が曖昧であるため、けっして間違うことが許されません。間違ったらそこでおしまいだからです。それゆえに、単に法令を遵守していた関係者に、無理のある責任を押し付けたり、歪曲したり、隠蔽したりすることが必要になるのではないかと想像しています。

今、官僚が、自らの失策を認めて責任を取る方法は、権限を本来の国民の代表に譲ることです。しかし、それは自己否定でもあります。このため、その発想がなく、権限に執着し、あたかも無謬を装い続け、誤摩化し続けています。

耐震偽装をおかした元建築士を通して関係者のモラルや、業界の風土の問題がクローズアップされました。しかし、官僚制度の問題点は、それほど大きくは取り上げられなかったのではないかと思います。見事なまでに。

また、しばしば、政治の責任が追及されますが、国民の代表である政治家には、直接の責任はないように思います。あくまで、官僚システムが問題です。ただ、そのような官僚システムを放置した責任はあると思います。この点については、政治家の自覚次第です。国民の代表としての権限で、しっかりとしたシステムを再構築して欲しいと願っています。その再構築の作業が、「戦後レジームからの脱却」だと思います。

敗戦後に憲法が制定されたいきさつとか、憲法9条の問題も、大切な問題かもしれません。しかし、その前の問題として、「主権在民」も確立されていなければ、国権の最高機関である国会の権限も確立していないという問題があります。この問題に対しては、官僚システムの一人歩きを止めることが、まず必要です。

「戦後レジームからの脱却」は、国民の代表が、耐震偽装をはじめとする今日の様々な問題の温床になっている官僚の裁量を取り上げるところからはじまると思います。国民の代表もまともな解決策を見つけることはできないかもしれませんが、国民の批判をもろに受ける政治家の責任が明らかなだけ、今よりも良いと思います。

また、官僚の裁量にメスを入れることで、利権のあり方も変わると思います。表面に現れる利権と、いたちごっこを続けても意味はありません。利権が問題となる根には、国民にとって直接の存在とはいえない官僚の裁量に基づくシステムがあるために、利権が不公正であるばかりか、無責任に無駄にいびつに増殖してしまうのだと思います。

もし、国民の代表が自らの責任で権益の配分を国会で決めることができるのであれば、それは、代表による決定であるという正当性が根拠になります。もしそれが不公正であるなら、次の選挙で審判することができます。

ところで、建築のシステムの問題については、若き日の田中角栄だったら、もっと別の対応を考えていただろうと思います。彼は、当時の最新の技術的な事情に精通しており、未来を構想することができた人物でした。その点で、当時の官僚を凌駕していました。

現在にあてはめるなら、我が国の官僚がもっとも苦手としながら、なぜか大量の予算を無駄に投入しているITを利用し、とっくの昔にシステムを改変し、耐震偽装などを起こさせることもなかったと思います。

けっして審査を硬直化させて、厳格になったように見せかけるようなことはしなかったと思います。官僚にとって責任を回避できて都合が良いなどということは、全く重要なことではありません。建築に関係する人に都合がよく、よりよい性能が確保できるような仕組みを構想したと思います。

自動車にも、テレビ放送にも真っ先に飛びついた田中角栄なら、さっさと紙から卒業し、申請や審査を双方向性にして、迅速で的確な制度を作っていたのではないかと想像します。

翻って、今の政治家にそれができるかと問われると、苦しいものがあります。正当な権限を持つべき存在だとは思いますが、官僚に勝っているというわけではありません。

さて、田中角栄は、官僚の裁量については、おそらく、政治家と対立するようなものだと
認識していなかったのではないかと思います。それは、彼の流れをくむ政治家の性格を決め、彼らが利権に対し「上手」にふるまう背景になったと思います。ただ、田中角栄個人は、官僚を凌駕する才能の持ち主で、官僚の裁量さえ道具とできたという特殊な条件ありました。そこが、他の政治家と異なるところです。田中角栄は、あまりに優れた才能を持っていたがゆえに、参考にはできないように思います。

結局、田中角栄を除けば、たいていの政治家は、官僚の風下に立つか、官僚と対立するか、それとも何もしないかしか、選択肢がありません。田中角栄のように官僚を風上からコントロールするというのは至難の技です。

このため、田中角栄型政治は、官僚の裁量を放置し、不公正な利権のシステムとデタラメな官僚支配という負の側面を残したといわざるを得ない状況となっていると思います。「戦後レジームからの脱却」では、中途半端に放置された主権在民を確立するために、まず、官僚の裁量に大鉈をふるう必要があります。それは、この田中角栄型政治の負の側面の克服でもあると思います。
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by gskay | 2007-08-04 13:29 | 揺れる システム