強制
沖縄戦での民間人自決の経緯の教科書への記載をめぐる問題は、とても難しく複雑です。様々な意味で、うっかり取り上げることはできないデリケートな問題です。

歴史上の事実の問題として検証をすることは当然ですが、歴史上のことであるがゆえに困難が伴い、議論が必要になるのだと思います。また、いかに歴史を解釈し、いかに記載し、いかに伝えるかという態度が問われ、その思想的な背景にまで踏み込んでしまい、収拾がつかなくなってしまうのではないかと思います。

私は、さしあたって、軍による強制があったかどうかということと、「正式な命令」の存在の有無という問題は、必ずしも同じではないと思っています。強制があったという立場も、なかったとする立場も、同じことを別の立場から言っているのではないかと思います。議論のポイント自体に問題があって、すれ違いが生まれているのではないかと思います。

沖縄戦などの民間人自決は、公的な責任の所在がはっきりしないままに生じてしまった悲劇ではないかと思います。私は、この公的な責任の所在がはっきりしないとうこと自体が公的な「悪」であり、悲劇への歩みを止めることができなかった原因だったと考えています。

問題は、責任や役割という枠組みが崩壊してしまっていたことだと思います。曖昧な命令体制や責任体制のもとで、民間人自決のような重大な過ちがおきました。これは、国家の枠組みを逸脱し超越して生じた出来事です。ただし、国家機関の枠組みや権威を中途半端に残しながら。

軍の体制や意思決定のプロセス、戦争における民間人のありかたや軍との関係など、国家としての「正式」という基準で考えると不可解なことばかりです。民間人自決という大規模で非常に重大なことへ、国家の「正式」な手続きや責任という点について曖昧な状態でつき進んでいってしまいました。責任の所在を問うという議論の限界を越えた問題です。

特定の誰かが命令していたとしても、その命令に根拠があったとは到底思えません。なぜ、そのような根拠のないものを止めることができず、あのような重大な悲劇につながってしまったのかという点こそ問われなくてはならないと思います。

曖昧さが根底にある出来事であるだけに、強制があったという立場にも、なかったという立場にも根拠はあると思います。そこに固執して非難を続けることはお互いに平行線をたどるだけではないかと思います。曖昧が根底にある出来事であるがゆえに、責任という観点からの解明や断定は困難です。

視点をかえて検討すべきだと思います。これは、歴史をうやむやにしてしまおうということとは全くことなることだと思います。

現状のような視点で、強制があったとか、なかったとかということで議論をするのは、責任体制があったという前提の上で成り立ちます。その前提さえ崩壊していたという視点から考えることも必要ではないかと思います。これは、誰かが責任を放棄したという状況とも異なります。それなら、責任放棄の責任を問うことが出来ます。

責任がうやむやであるがゆえに、責任の所在を究明することには、あまり意味がないと思います。責任がうやむやになっていたという事態に一歩踏み込んで、この事態を批判的に理解する必要があると感じています。

この国では、肝心なときに、責任がうやむやになるのは、決してあの時だけのことではありません。本来の国のあり方などおかまいなしになり、あってはならない過ちをおかしがちです。

その時の状況や、そうなっていく過程を直視した時、信じられないような曖昧な状況が放置されています。それこそが、言葉のイメージとはうらはらに、「強制」の本性なのではないかと思います。
[PR]
by gskay | 2007-11-02 11:13 | 安全と安心