安全の全体主義
私は、所詮、耐震偽装に巻き込まれた一市民。得意とする専門分野は、全く別のところにあります。得意分野であれば、論争は望むところです。しかし、そうでないところでは、よくわかっていない分だけ、ムキになってしまうかもしれないと感じ、自重しています。ただし、自分が直接体験した事実については譲れませんが……。

こうして、いろいろと考えてつぶやいていることによって、いろいろなことに詳しくなってきたと感じています。専門外であるため、一種のディレッタンティズムのような趣味や造詣のレベルだと思ったことがありますが、当事者であることを考えれば、そんな悠長な立場を気取ってはいられません。

ところで、国権とか国家ということについて考えています。また、全体主義についても考えるようになりました。耐震偽装に巻き込まれ、今までイメージしてきた全体主義とは異なる全体主義があるのではないかと感じるようになりました。

全体主義に対して、私は、独裁的で独占的で排他的、抑圧的な権力の集中を想像していました。しかし、これらは結果であって必要な要素ではないと考えるようになりました。まして、軍国主義化も、全体主義の本質ではないと思います。秘密警察の存在は、排他的で抑圧的になった時にうまれる表面的な存在ではないかと思います。(秘密が表面的というところが、転倒していて面白いと思います。また、公然の秘密警察でないと、秘密警察は役に立たない訳で……。このエントリとは関係ありませんが……。)

戦前の日本の体制には、強力な権威はあったものの、独裁者がいたとはいえないと思います。そういう点で、他の国に対して用いられる全体主義という言葉でくくることに抵抗があるようです。しかし、独裁を必要な要素から外しても、全体主義と感じられるものはあったのではないかと感じています。また、軍国主義化ばかりが問題視されるべき対象ではないだろうと思います。

全体主義は、誰も現実の問題に責任をもって対応しない時に、萌芽するのではないかと思います。結果として、不作為による放置にしても、暴走にしても、破綻状況を生みます。そこに、権威などに対する強迫観念をともないながら、問題や失敗を認めることが許されない状況が加わって、花が咲くのではないかと思います。

肝心の責任担当者にとって、責任が明瞭な時には、隠蔽する。

自らの責任が不明瞭な時には、責任が及ばないように、小手先の対応をするとともに、責任の所在をますます曖昧にする。

本来の責任担当者が放棄してしまった責任は、権威などの強迫観念をともないながら、より末端の担当者に移ります。末端は、本来の担当者の無責任にこりているので、責任を担おうとします。しかし、それが無理で、さらに末端に押し付ける。これがエスカレートすることで、責任の空白地帯が広がり、ますます歯止めがきかない状況が出現します。そして、最末端にまで転嫁されきった状況が全体主義の完成状況ではないかと思います。

中には疑問を感じてるいる人がいるのに、曖昧な責任関係の中で、みなが同じ過ちをおかさざるをえなくなった状態。その状態が、全体主義の背景にはあるのではないかと思います。

強迫観念によって、誰もが真面目に励んではいるが、誰もが、責任逃れこそが第一で、無責任で何もしない状況です。この状況では、公式な形の強制はないかもしれませんが、社会全体が同じ方向を向くことになります。

また、異なる方向を目指す人がいて、その努力が実をむすぶことは、多くの人にとって、これまでの努力に反します。このため、足並みを乱すことと位置付けられて許されません。

みなで無益な努力をしています。実際は、無力感にさいなまれ、自信も、将来への展望も見いだせない状況です。強迫観念に依存していることが、当面の安心を与えてくれます。ただし、長期的な視点からみれば、問題を先送りにし、抜本的な対策を遅らせるだけです。

私は、このような背景を考えているため、独裁者の誕生を警戒することも、軍備について敏感になることも、全体主義やその弊害への警戒にはならないと考えています。

全体主義は、適当な権威が必要であることもあり、独裁者を生みやすいかもしれません。しかし、全体主義自体が適切に対処しないと破綻する運命をかかえているので、その運命と、独裁の悪が混同されているように思います。

仮に、権力や責任の空白に独裁者が取り組み、抜本的な改善がなされたとしたら、その独裁者は、「悪」とはいえないのではないかと思います。しかし、大抵の独裁者も無力で、全体主義によって祭り上げられているにすぎないため、破局まで暴走して終わることになってしまうのではないかと思います。

第二次大戦までは、戦争への対処が、国の切実な問題の一つだったと思います。このため、全体主義は、軍国主義を表に出す形で発展しました。

「勝ちたい」、あるいは、「勝たねば」というところまでは、無作為も暴走もなく、現実的でいられたかもしれません。しかし、それが、「勝つはず」にすり替わり、負けることを想定することさえ許されなくなって、軍国主義を表に出した全体主義になりました。

新しい技術に背をむけ、陳腐になったテクノロジーを基盤にした無駄な厳格化に血眼になりました。また、目の前の失敗を直視することができず、負けるという状況に適切に対応することができませんでした。さらに、その責任が、一般国民に刷り込まれる形で押し付けられら、数々の民間人の悲劇を作りました。

さて、耐震偽装では、一連の責任追及も、法の改正も、安全の確保につながる努力であったと評価することは難しいと思います。陳腐になってしまったシステムにしがみついているといわざるを得ないと思います。

一方で、安全という至高の目標について疑問をさしはさむことは許されません。

議論が不利になったら、先に「安全のために」といえば、議論を有利に進めることができるような強い力をもっと言葉になっています。

「安全をめざす」ことが、「安全であるはず」にすり替わり、安全に少しでも疑問がある状況を許すことが出来なくなっています。安全をめぐる実態を、直視することができず、しかるべき対処を怠っている状況にあります。

耐震偽装の初期にあったバッシング以来、そこかしこに、安全を軸にした全体主義の萌芽を感じさせる空気が蔓延しているのではないかと感じています。その空気にの中にいる当事者は、皆くそ真面目です。しかし、自分の責任がないことを主張しているにすぎません。自分の無力や無能力には目をつぶりつつ。

軍国主義に発展した全体主義は、現実離れした愚かなシステムにより、軍人のみならず民間人の命まで粗末にし、築き上げてきた財産や文化を破壊しました。安全を軸にした全体主義も、現実離れした愚かなシステムに発展し、われわれの財産を冒すなどの弊害をまきちらしていくのではないかと危惧します。

処方箋は単純です。現実を直視し、責任ある立場が責任をとりながら、最善の方法を取り入れつつ、もしもの時に最悪の事態をさける準備をしておけばいいだけです。この単純な処方箋では、「絶対」の安全はありません。より安全な状況が目指されているにすぎません。

「絶対」ではないからこそ、みんなで努力しなくてはいけないし、責任者は責任を意識し、失敗があったとしても現実の問題として対処しなくてはなりません。

また、それを現実のものにするためには、必要以上の責めを執拗に加えることで、みんなが満足するというような醜い心構えを排除しなくてはいけないと思います。

我々自身の現状の限界を直視し、謙虚に取り組むことによって、テクノロジーについても、失敗への対処についても、より優れたものにしていくことができるのではないかと思います。
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by gskay | 2007-11-05 12:51 | 安全と安心