理不尽な公的お墨付き
「事故米」の事件で、自殺者が出てしまいました。

耐震偽装でも、問題が明るみに出てしばらくしたところで、元建築士に構造設計を下請けに出していた建築士が自殺してしまったことを思い出しました。

世間では、良心の呵責によって自殺を選んだという解釈があるようです。真相を知っているのに隠す事が耐えられなかったのではないかという憶測もあります。影響の大きさに耐えられなかったのではないかとか、今後の会社のことや自分自身や家族の未来を悲観したのではないかという想像もあります。そういう様々な詮索がある事自体が、追いつめる要因なのかもしれません。

結局は、わかりません。

しかし、わからないとしても、人が亡くなるというのは大変なことです。まるで縁がなかった人の死でも、死の話をきくと、いろいろな感情や、いろいろな考えが湧いてきます。そして、何か理由を求めずにはおれません。

私は、この二つの自殺には、共通するところがあるように感じました。

ひとつは、玉突き事故に巻き込まれたような立場。

自分が引き起こした事故ではなく、巻き込まれただけですが、自分自身も止まることができずに前の車にぶつかってしまい、被害者であると同時に加害者です。もし、もっと注意していたら、被害者になることも、加害者になることも避けられたかもしれません。少なくとも前の車にぶつからないようにすれば、被害者を増やさずに済んだかもしれません。

根本的には、自分のしでかした事ではないのに、被害者としての苦しみだけでなく、加害者としての苦しみまで背負わなくてはいけない理不尽な状況に追い込まれていたと想像します。

次に、公的お墨付きが何の頼りにもならないどころか、手のひらをかえして、際限なく責めが行われること。

耐震偽装では、建築確認に通ったことで、設計は適法であり、大丈夫だと考え、疑ってはいなかったと思います。「事故米」の事件でも、農水省の検査が度々行われていることから、品質について大丈夫だと思っていたと思います。

ところが、建築確認も、農水省の検査も、全くあてにはならないものでした。しかも、一旦、基準を満たさないとなると、その基準を盾にした、執拗な追及が、公的なものに限らず、メディアなどからも浴びせられることになります。

おそらく多くの人が、公的な手続きによるお墨付きがついていれば大丈夫だろうと考え、自分で確かめることはないのではないかと思います。しかし、公的な手続きによって違反が指摘されていないからといって、我が国では、それは何の保証にもなりません。

保証になっていないどころか、むしろ、落とし穴のような仕組みになっています。

今まで従っていて、法規に反してはいないという安心は消え去り、逆に今まで従っていたつもりの仕組みによって追及を受けることになります。基準というものが作られている理念や根拠、安全率などは無視され、ただ違反という一点によって猛烈に責め立てられることになります。

その責めは、秩序をもったものにはほど遠く、行き当たりばったりです。加えて、公的なお墨付きに裏切られた理不尽さは、今まで何の疑いもなく全幅の信頼をよせてきたものが失われるだけでなく、全幅の信頼をよせてきたからこそ、どのような責めがどこまで行われるのかがわかりません。それが先行きを不透明にし、ただ恐れるしかなく、不安が増強することになるのではないかと思います。

私は、この公的お墨付きの理不尽さに不愉快な気持ちを感じています。

玉突き事故の当事者であることについては、損害にしろ賠償にしろ、無限ということはありません。しかし、公的なお墨付きについては、公的なものであるにもかかわらず、定めがはっきりしないため、際限がないのではないかという不安が生じます。さらに、それは、公的なものであるために逃れることはできないと感じられます。

もともと、公的お墨付きを疑っていれば、このように追い込まれることはないのかもしれません。私は、公的な権威と言っても、「絶対」ではなく、限界があると思っています。しかし、だからと言って、公的なお墨付きは疑ってかかるべきだと主張することには抵抗があります。

もし、基準の違反などへの対応がしっかりとしていたり、限界が明示されていたなら、このような理不尽さはなくなるのではないかと思います。そうした配慮が欠如したシステムであるために、このような悲劇を避けることができなくなっているのではないかと思います。

このような形で自殺をする人には、思い残すことが沢山あると思います。その一部は、公的な仕組みを適切に作り、節度をもって適切に運用することで、なくすことができるのではないかということに気付きました。
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by gskay | 2008-09-18 11:34 | 安全と安心