カテゴリ:安全と安心( 45 )
性能試験の杜撰さ
2007年の秋には、建材の性能試験に問題があったと指摘されました。今度は、航空機の座席の性能の試験の問題が指摘されました。

およそ、国土交通省が所管している性能などの検査や試験で、まともに行われているものはあるのでしょうか?民間の不正だけでなく、公的な機関でも、相当に杜撰なことが行われてきたようです。

国土交通省が担当しているのは、安全や安心にかかわる技術です。その技術は日進月歩。その進歩に、きちんと役所が追いついていて、しかるべき任務を果たしていたなら、このような問題が、あちらこちらで起こることはないと思います。

航空機の座席の性能検査データの改ざんは、03年頃には行われていることが確かで、90年代の半ばにさかのぼるともいわれています。耐震偽装でもそうでしたが、随分と長い間、放置されてしまったものです。役所は、ナメられてしまっているのだと思います。

何らかの不都合は、役所の前任者の責任に波及するということで、余程の問題にならない限り、有耶無耶にされてきたとしたら、問題です。むしろ、有耶無耶にするのが当然だという空気があるのだとしたら、深刻です。

単に、私企業の杜撰な体制や倫理性の欠如だとは言い切れない根深いものがあり、その源は、役所にあると思います。

ところで、この座席の性能試験のせいで、全日空の新しい座席の導入が遅れるそうです。国際線の長距離で、プレミアムエコノミー席がないというのは、苦しい……。幸い、私は、しばらく長距離国際線に乗る必要はないのですが、うちの家内が文句を言っています。ビジネスクラスに乗ること(アップグレードサービスだけど)もあるのですが、家内はプレミアムエコノミーが気に入っていました。

これまでの全日空のビジネスは、完全に水平になってくれないので、だったら、プレミアムエコノミーくらいのリクライニングの方が快適だと主張しています。実は、私もそう思っていて、アシアナ航空や大韓航空で、たまに古いタイプのビジネスクラスの座席に座ることがありますが、意外に快適です。もっとも、今度の全日空の新しいシートのことはわかりませんが……。

航空機の座席は、航空会社にとってとても大きなポイントだと思います。新型のシートの導入競争になってしまっているため、メーカーの検査が追いつかないのではないかと思います。この競争は、少々加熱してしまっているようですが、目新しさを競うのは、ほどほどにしなくてはいけないのかもしれません。逆に、もし、このようなモデルチェンジを続けるというのなら、それに適した検査制度を構築しなくてはいけないと思います。
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by gskay | 2010-02-15 13:13 | 安全と安心
危機管理の品質管理
マニュアルが想定していない事態に遭遇した場合、マニュアルは、かえって足を引っ張ります。危機管理にあたって、マニュアルの不備を問題にすることがありますが、そのマニュアルは、あくまで、非常事態の被害を小さくするためのマニュアルです。「危機」を克服するためのマニュアルとはいえません。

また、そうしたマニュアルは、被害を避けることができないからこそ存在するのであり、そうしたマニュアルを整備すれば、被害を逃れることができるという幻想は捨てるべきです。

質のよい製品やサービスを提供するために、マニュアルに沿うのは良いことだと思います。一定以上の水準を維持し、一定以下の不良品や失敗しか出さずにすみます。また、問題が発生した場合には、マニュアルからの逸脱の有無を点検することによって、大方の問題は解決します。責任も明確にすることができます。

同様に、想定された非常事態に対し、マニュアルに沿った対応をすることは、被害を最小限にするために必要なことです。そして、対応の責任を明確にすることに役立ちます。

つまり、品質管理が可能です。

しかし、非常事態が想定の範囲外だったら?

その想定外という事態は、問題が大きすぎて対応できないという事態も考えられますが、問題が小さすぎて、マニュアルで対応すると大袈裟になりすぎてしまうという事態もあります。

問題が大きすぎる場合でも、問題が小さすぎる場合でも、頼りになるのは「人」です。能力があるリーダーが責任をもって判断しなくてはいけません。これはマニュアルにはなじみません。したがって、品質管理と同じような発想で対応することはできません。

限界を超えた時に、頼りになる人材を、有効に活用できないシステムは、根本から見直す必要があります。

ところで、そもそも、被害があることを前提にしていないマニュアルには意味はありません。被害ゼロという究極の目標を達成するという使命は大切ですが、それは前提ではなく、「目標」です。

次いで、そのマニュアルの限界が明示されていないマニュアルは、想定外の状況では足かせになります。

危機管理のコンサルタントと称する人々の多くが唱えるのは、被害を最小限に抑えることであって、本当の危機や非常事態に立ち向かうことではないと思います。少なくとも、危機管理マニュアルを、大上段に振りかざすコンサルタントには限界があり、盲信はできません。

被害を最小限に抑えるためのマニュアルは、通常の製品やサービスの品質を維持するためのマニュアルと同じように整備されるべきですが、万能ではありません。それを逸脱したときにこそ、本当の危機管理が問われます。

新型インフルエンザの騒動をみていて、3年半前に耐震偽装に巻き込まれた時と同じ病弊に冒されていると感じました。本来頼りにするべき「人」の話には耳を傾けず、当事者をふみにじりながら、公的機関やメディアが暴走し、それを人々が盲信しました。

この新型インフルエンザ騒動は、現在のところ、新型インフルエンザが弱すぎると言う想定外ですが、その想定外の事態に対し、科学的な根拠が乏しい迷信による風習が蔓延しました。それを、公的な権威が肯定しているのは滑稽です。

その風習では、強い新型インフルエンザには対応できません。そうした迷信の通りに行動しない人が非難されることは、不愉快です。しかし、それ以上に、その風習が蔓延することは、強い新型インフルエンザを甘く見ることにつながる危険な発想であることを恐れます。

また、弱すぎるという事態への対応のデタラメさによって、どれだけの、経済的な損害が発生したことか……。経済的な損害を肯定する根拠は乏しいのですが、残念ながら、それを無条件に受け入れなくてはなりません。

その理不尽さは、耐震偽装に巻き込まれたときの理不尽さに良く似ていると思います。

結局、どのような教訓があったのでしょうか?

今度も、のど元をすぎれば、熱さを忘れてしまうのでしょうか?

危機管理のマニュアルに基づく対応をし、その対応の品質管理ばかりに気を配って、本末が転倒し、思考停止に陥っていると思います。マニュアルにしたがっていれば、考えなくていいし、無責任になれるので楽です。

もはや、問題を見極める努力は期待できないのでしょうか?せめて、危機管理を担うにふさわしい人物の発言を、ねじ曲げずに、そのままに理解すべきです。
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by gskay | 2009-06-14 15:55 | 安全と安心
欠陥建築への対応
現在に日本の建築には、少なくとも二つの欠陥建築の類型があります。

一つは、建築のプロセスのどこかに問題があって、建物の使用にあたって、実害が出ているもの。

もう一つは、法律上の規格に反するとされるもの。これは、建物の使用にあったての実害は出てはいないものの、違法建築として重大な問題になっています。

耐震偽装は、法律上の規格に反するとされるものです。地震による倒壊のおそれというのは、地震が起きた場合には、実害を生じさせる可能がありますが、実害がすでに出ているわけではありません。

実害が出ているわけでもないのに、可能性を実害に変換させてみせたのが、耐震偽装への対応だったと思います。地震で被害が生じるかもしれないという可能性を、所有者の財産の損害に変換してみせました。

この実害への変換の手続き自体は、根拠の合理性は別として、法的には妥当だったと思います。少なくとも異議の申し立てなどの期間は適正に設けられていました。

とはいうものの、私のところのマンションは、発覚から3年以上も除却の開始までの時間がかかっています。この間、地震で生じるかもしれないという被害のうち、建物の使用者については、公的な対応で守られていたことになります。しかし、建物の周囲への被害については、どうだったのでしょうか?

公共的な配慮という建前はあるものの、実際問題としては、そこまでの執拗な対応が必要だったのでしょうか?あえて、所有者である住民に大きな損害を負担させ、公的にも大きな負担してまでやるべき対応であったかどうか疑問です。

その上、既存不適格と呼ばれる建築物の群れ。

適法な建築であるにもかかわらず実害が出ている欠陥建築があるということを考えた時、この対応は適切なバランスだったとはいえないように思います。
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by gskay | 2009-03-06 03:43 | 安全と安心
流通先業者の救済
「事故米」の流通先として公表された業者には、公的な支援や保護、補償を提供するべきだと思います。

農水省の対応は、耐震偽装の時の国交省の対応に比べても、滅茶苦茶だと思います。しかし、耐震偽装とは異なり、たとえ中途半端な段階の発表で、配慮不足で、弊害があったとしても、公表を不適切な事だとは思いません。

「事故米」の流通によって、それを最終的に食べた人に被害がでるかどうかはわかりませんが、注意を呼びかけることには意味があると思います。「事故米」では、対応が後手に回ると、薬害と同じような不作為による被害の拡大が起こりかねません。

その一方で、業者の損害を放置してはいけないと思います。

公表された業者には、街の和菓子屋のような規模の小さい業者も含まれています。こうした業者が、風評などによる損害に耐えられるような余力があるとは思えません。しかも、家庭と店が一体となっていることもあると思います。その場合、風評などの被害は、ただちに家族を窮地に追い込みます。

規模の大きな企業なら、多少の余力があり、訴訟によって損害を回復する事もできると思います。しかし、規模の小さい業者については、速やかな対応をしなければ、取り返しがつかなくなると思います。

間違っても、「安全宣言」のような、くだらないお墨付きで誤摩化そうとしてはいけません。検査や調査による公的お墨付きが、当てにはならないということも、この事件の背景にはあるのですから。

きちんとした経済的な対応をするべきだと思います。その負担は、最終的には、損害賠償などの形で、いずれかに請求することになると思いますが、必要なら、国が代位して、関係者の責任を追及するべきだと思います。

ひょっとすると、国が国に損害賠償を請求するような自体も想定されます。そうした大胆な取り組みが行えるなら、「消費者庁」構想に大きな意義を見いだせるような気がします。

ところで、耐震偽装では、公的な責任を考える上でも、公的な対応の主体を考える上でも、関係する当局が、国だけに限らず、特定行政庁をおく自治体や民間検査機関が含まれていました。関係者が複雑で、機関同士の調整が必要でした。

これに対し、「事故米」の事件は、国だけの問題です。

「事故米」の事件の被害への対応については、内閣が断固とした方針を出せば、その判断だけで、乗り越えることができるように思います。

政権末期とはいえ、薬害への対応に大きな足跡を残し、「消費者庁」構想を打ち出したという点で、画期的な取り組みをした内閣なので、果敢な判断を期待します。

……どっちみち不人気で退陣なのですから、周囲の評価は気にせず、最後にもうひとつ大きな仕事をしてもいいように思います。
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by gskay | 2008-09-19 04:23 | 安全と安心
理不尽な公的お墨付き
「事故米」の事件で、自殺者が出てしまいました。

耐震偽装でも、問題が明るみに出てしばらくしたところで、元建築士に構造設計を下請けに出していた建築士が自殺してしまったことを思い出しました。

世間では、良心の呵責によって自殺を選んだという解釈があるようです。真相を知っているのに隠す事が耐えられなかったのではないかという憶測もあります。影響の大きさに耐えられなかったのではないかとか、今後の会社のことや自分自身や家族の未来を悲観したのではないかという想像もあります。そういう様々な詮索がある事自体が、追いつめる要因なのかもしれません。

結局は、わかりません。

しかし、わからないとしても、人が亡くなるというのは大変なことです。まるで縁がなかった人の死でも、死の話をきくと、いろいろな感情や、いろいろな考えが湧いてきます。そして、何か理由を求めずにはおれません。

私は、この二つの自殺には、共通するところがあるように感じました。

ひとつは、玉突き事故に巻き込まれたような立場。

自分が引き起こした事故ではなく、巻き込まれただけですが、自分自身も止まることができずに前の車にぶつかってしまい、被害者であると同時に加害者です。もし、もっと注意していたら、被害者になることも、加害者になることも避けられたかもしれません。少なくとも前の車にぶつからないようにすれば、被害者を増やさずに済んだかもしれません。

根本的には、自分のしでかした事ではないのに、被害者としての苦しみだけでなく、加害者としての苦しみまで背負わなくてはいけない理不尽な状況に追い込まれていたと想像します。

次に、公的お墨付きが何の頼りにもならないどころか、手のひらをかえして、際限なく責めが行われること。

耐震偽装では、建築確認に通ったことで、設計は適法であり、大丈夫だと考え、疑ってはいなかったと思います。「事故米」の事件でも、農水省の検査が度々行われていることから、品質について大丈夫だと思っていたと思います。

ところが、建築確認も、農水省の検査も、全くあてにはならないものでした。しかも、一旦、基準を満たさないとなると、その基準を盾にした、執拗な追及が、公的なものに限らず、メディアなどからも浴びせられることになります。

おそらく多くの人が、公的な手続きによるお墨付きがついていれば大丈夫だろうと考え、自分で確かめることはないのではないかと思います。しかし、公的な手続きによって違反が指摘されていないからといって、我が国では、それは何の保証にもなりません。

保証になっていないどころか、むしろ、落とし穴のような仕組みになっています。

今まで従っていて、法規に反してはいないという安心は消え去り、逆に今まで従っていたつもりの仕組みによって追及を受けることになります。基準というものが作られている理念や根拠、安全率などは無視され、ただ違反という一点によって猛烈に責め立てられることになります。

その責めは、秩序をもったものにはほど遠く、行き当たりばったりです。加えて、公的なお墨付きに裏切られた理不尽さは、今まで何の疑いもなく全幅の信頼をよせてきたものが失われるだけでなく、全幅の信頼をよせてきたからこそ、どのような責めがどこまで行われるのかがわかりません。それが先行きを不透明にし、ただ恐れるしかなく、不安が増強することになるのではないかと思います。

私は、この公的お墨付きの理不尽さに不愉快な気持ちを感じています。

玉突き事故の当事者であることについては、損害にしろ賠償にしろ、無限ということはありません。しかし、公的なお墨付きについては、公的なものであるにもかかわらず、定めがはっきりしないため、際限がないのではないかという不安が生じます。さらに、それは、公的なものであるために逃れることはできないと感じられます。

もともと、公的お墨付きを疑っていれば、このように追い込まれることはないのかもしれません。私は、公的な権威と言っても、「絶対」ではなく、限界があると思っています。しかし、だからと言って、公的なお墨付きは疑ってかかるべきだと主張することには抵抗があります。

もし、基準の違反などへの対応がしっかりとしていたり、限界が明示されていたなら、このような理不尽さはなくなるのではないかと思います。そうした配慮が欠如したシステムであるために、このような悲劇を避けることができなくなっているのではないかと思います。

このような形で自殺をする人には、思い残すことが沢山あると思います。その一部は、公的な仕組みを適切に作り、節度をもって適切に運用することで、なくすことができるのではないかということに気付きました。
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by gskay | 2008-09-18 11:34 | 安全と安心
トレーサビリティ
農水省は、トレーサビリティ普及にむけた活動を行っています。牛肉を中心にはじまり、様々な品目に及んでいるようですが、もっぱら食品が対象のようです。

汚染により工業用の材料にしか使えないはずの米が、農水省から卸され、それが業者の手によって食品に化け、しかも様々な偽装表示をされて販売されていた事件は、トレーサビリティのシステムへの取り組みに問題がなかったどうかを点検する機会になると思います。

食品に限らず、目の前にある商品がどのように作られて販売されるようになったのかを追跡するシステムは、今のところは、研究開発途上ということになっているようです。しかし、情報ネットワークは充実しており、基盤となる技術の問題よりも、どのような規格が良いかということが壁になっているのではないかと思います。

規格を決定する作業は、民間任せで急速に進むこともあれば、そうでないこともあります。

関係する専門家同士が、共通の基礎的な知識を共有しているような領域では、民間任せの取り組みがいいように思います。例えば、建築や医療は、専門家が高等教育によって養成されており、技官をふくめ進歩にとりのこされがちな官僚が取り組むよりも、民間の専門家が自律的に取り組む方が良いように思われます。

これに対し、農水省が監督している農業や水産業、林業などは、高等教育による共通の基盤をもつ専門家もいるものの、様々な背景や考え方をもった人たちが従事しています。これに流通や加工、製造も加わえると、関係者が協力して取り組む上での共通基盤を見いだすのは困難です。これは、経産省の管轄に属する分野でも同様ではないかと思います。

このような様々な人たちが関わる領域では、専門家同士の自律的な取り組みよりも、公的な権限による取り組みの方が適当ではないかと思います。これは、利害にも関わる問題であり、「政治的」な取り組みが必要ではないかと思います。今の官僚は、小手先の制度改正には積極的ですが、抜本的な取り組みは及び腰のように思われます。そして、利権の確保は得意でも、利害の調整は苦手のように思われます。そのような点からも、きちんと国会で考えるべき問題として取り上げるべきだと思います。

ところで、「消費者庁」構想に、私は懐疑的です。経済の骨格が内需にシフトしようとすることに、水をさしかねいと懸念しています。消費を保護ずるのではなく、消費を規制してしまうおそれを感じています。

ただし、消費者の利益を口実に、縦割り行政を一元化することには賛成です。消費そのものに介入しようとするのではなく、製造や流通の過程の透明性を高めることが、現状を打開するために必要です。

幸い、情報技術のインフラは、かなり整備されています。そのインフラを活用する方向に進んで欲しいと思います。

今回の「事故米」の事件では、工業用にしか使えない米が、農水省から業者に卸されました。卸されるプロセスに何があったのかは知りません。ただ、農水省は、利用に制限がある特別な配慮が必要な米だと知っていながら、追跡を怠りました。同時に、業者も追跡をかわすためであるかのような複雑な仕組みを構築していました。

工業用の材料、農産物、食品という区分の隙間をつく形で行われた不正で、今日の行政制度の弱点を表しているように思います。省庁の垣根や、品目の区分をこえた一元的なトレーサビリティのシステムを構築する必要があると思います。

それはそうと、なぜ、汚染されているような米を輸入しているのかということも話題になっているようですが、工業用の材料としての輸入であれば、経済性からみた妥当性がないわけではないのでしょう。その取り扱いは大問題ですが……。

一方、世界的な穀物確保の競争が遠からず起こるとされています。それに備え、日本は、海外に米を提供するための準備をしておかなくてはいけないと思います。一歩間違えると、米が海外に流出し、国内には残らないというような状況も起こりかねません。

様々なことを考えなくてはいけない問題ですが、問題意識も取り組みも、適当ではないと感じます。
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by gskay | 2008-09-17 01:19 | 安全と安心
刑事訴追のための能力の不足(2)
医学は、臨床の学問であり、その学問的な裏付けがあるから、医療に正当性があるのだと思います。臨床の学問であるため、常により正確なものへと書き換えられています。しかも、コンピューター・インターネットによる情報化により、最新の知見を簡単に手に入れることができます。

医療では、医学書に書かれているような指針をルールであるかのように捉えて守ることよりも、より有効で適切な手段をとることが優先されるべきです。

医療においても必ず守らなくてはいけないルールはあります。たとえば、酸素ボンベの色は決まっているし、レギュレーターなどの管は、専用のものしか接続できないようになっています。

この守らなければ行けないルールは、船が衝突しそうになったときに、どのような回避行動をとるべきかというルールと同じようなものです。

これに対し、医学書に書かれている指針は、その当時の知見を著者の考えを交えて紹介しているだけであり、ルールではありません。

検察は、「医学的準則」という難解な言葉を用いてはいるものの、医学や医療の本来のあり方を曲解しているように思います。次席検事とういうのは、その検察庁のスポークスマンを担当しているということです。この考えが、検察全体の考えなのか、この次席検事の個人的な見解なのかわかりません。また、記事にした記者の考えも加わっているかもしれません。


産科医の無罪確定へ=帝王切開死、検察が控訴断念−「今後は慎重に捜査」・福島(時事通信) - Yahoo!ニュース



8月29日15時15分配信 時事通信

 福島県立大野病院で2004年、帝王切開手術を受けた女性=当時(29)=が大量出血して死亡した事故で、業務上過失致死と医師法違反の罪に問われた執刀医加藤克彦被告(40)を無罪とした福島地裁判決について、福島地検は29日、控訴の断念を決めた。控訴期限の9月3日が過ぎれば、無罪が確定する。
 公判では、癒着した胎盤を子宮から剥離(はくり)した際に大量出血を予見できたのかと、剥離を中止し子宮摘出に移る義務があったのかが主な争点だった。
 地裁は20日の判決で、子宮摘出に移るべきだとした検察側主張について「医学的準則だったとは認められない」とし、被告に剥離措置を中止する注意義務はなかったと認定。検察側立証は医学書の記述などにとどまり、主張を裏付ける臨床例を提示していないと指摘していた。
 同地検の村上満男次席検事は「違反者に刑罰を科す(医師の)注意義務をどうとらえるかで、裁判所は検察と異なっていた。裁判所は臨床、検察は医学書に基づいており、判決のような考え方もある」とし、控訴しても裁判所の判断を覆すことは困難とした。
 加藤被告の逮捕、起訴について「法律と証拠に基づいてやった。判断としては間違っていない」としたが、「今後はより慎重、適切な捜査をしたい」と述べた。 


「裁判所は臨床、検察は医学書に基づいており、判決のような考え方もある」という発言は、医学が臨床の学問だということを忘れたトンチンカンな発言です。

医学書がどのように書かれるかということや、医療の意思決定がどのように行われるかを考えると、全く内容のない、意味がない釈明です。


大野病院医療事故:県、懲戒処分見直しも 地検が控訴断念、医師の無罪確定へ /福島(毎日新聞) - Yahoo!ニュース



 無罪確定へ。大熊町の県立大野病院で04年に起きた医療死亡事故の裁判は29日、福島地検が控訴断念を明らかにし、業務上過失致死と医師法違反の罪に問われた加藤克彦医師(40)の無罪が確定することになった。県は、加藤医師の懲戒処分の見直しを検討している。【松本惇、西嶋正法、今井美津子、石川淳一】
 福島地検の村上満男次席検事は「事実関係はおおむね検察官の主張通り認定している」とした上で、「判決は刑罰を科す基準となる医学的準則を、ほとんどの者が従っていると言える一般性を有しなければならないとした。裁判所の要求も考え方としてあり得る」と述べた。加藤医師の起訴については「被告が持っていた医学書に(検察側主張に沿う)記載があり、産婦人科医の鑑定もあったので、違法とは思わない」と正当性を主張した。県警の佐々木賢・刑事総務課長は「法と証拠に基づき必要な捜査をした。医療行為の捜査は今後も慎重、適切に行いたい」と話した。
 一方、加藤医師の弁護団は「当然の結論。産科を中心に医療現場全般に与えた悪影響が収束することを期待する」とし、日本産科婦人科学会は「今後も母児ともに救命できる医療の確立を目指し、最大限の努力を続ける」との談話を発表した。
 また、県病院局の茂田士郎・病院事業管理者は「医療事故の再発防止に全力を尽くしたい」とコメント。加藤医師を減給1カ月(10分の1)とした05年6月の処分について、同局の林博行次長は「判決を吟味し、(加藤医師の過失を認めた)県事故調査委員会の報告書を含め、懲戒処分取り消しも視野に検討したい」と話した。
 保岡興治法相は会見で「医療事故の調査は、専門家らで構成する第三者委員会がリスクなどに専門的判断を下し、刑事司法はそれを尊重し対応する仕組みが必要」と語った。

8月30日朝刊

事実認定に関しては、ほとんど争われていないので、検察の手柄はないと思います。

「刑罰を科す基準となる医学的準則」というものが、どのように形成されるのかが問題になっています。「被告が持っていた医学書に(検察側主張に沿う)記載」というのが検察の根拠ですが、その記載通りに医療を行った場合とそうでない場合を比較する資料が必要です。根拠とした医学書にはルールが記載されているわけではないので、その記載に反したことが問題だとは断定できません。その記載に沿わない主張もあるような内容の場合、医学書に記載されているからといって、直ちに根拠にはならないと思います。

起訴の正当性に関しては、検察が批判されるべき点が多いと思います。ただ、能力不足による見込み違いによるもので、違法とはいえないと思います。

この能力不足は、情報化によって医学のあり方が大きく変化したことに気付いていないことによるように思います。現在、データは、論文や統計で容易に入手でき、それがエビデンスとなって医療の中身を決めています。

警察も検察も、マスコミも、医者がどのように勉強しているかということを、全く知ろうとしていないのではないかと感じました。古い時代の発想で無理矢理解釈しようとしていると感じました。一般の人に大きな影響があると思います。これは、とても、重大な問題ではないかと思います。

コンピューターによって情報の集積や分析が容易に行えるようになって情報の量も質も変わりました。加えて、インターネットによって誰もが容易にアクセスできるようになっています。医学はその恩恵を強く受けています。文献ということに限って言えば、この裁判のために必要な資料は、気が利いた医学生なら、半日もかからず揃えられると思います。

ちなみに、文献はみんな英語です。いまや、ドイツ人もフランス人もロシア人も英語で仕事をしています。そこには、国境も言葉の壁もありません。そう考えると、日本語で済んでしまう仕組みは限界がきているのかもしれません。想像ですが、検察が優先したという医学書は、日本語の医学書であったのではないかと思います。英語くらい読めなきゃ、いまどき、プロの仕事に関わることはできないと思うのですが……。

もちろん、医学や医療には、文献にならない知識や、言葉であらわすことができない技術があったりするので、文献などの資料が判断の全てではありません。しかし、文献にかぎって考えれば、「医学書」の記載を持ち出して、「臨床」を根拠にした判決との立場の違いを釈明しようとした検察の姿勢からは、医学が臨床の学問であることを忘れていることが伺えます。また、専門知識の不足と言う能力不足以前に、情報についての能力が不足しているように思います。

日本は、インターネットや情報について後進国だと思います。日常生活や専門領域では、かなり浸透しているように思いますが、日本という「国」の屋台骨となる役所では、警察や検察に限らず、取り組みが絶望的に遅れていて、20年以上前の発想にしがみついているようにに思います。
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by gskay | 2008-08-31 01:29 | 安全と安心
刑事訴追による代替
「あって欲しくないこと」の原因を追求し、「あってはならないこと」されることが行われていた場合には、その責任を負う人を罰することになります。

しかし、すべての「あって欲しくないこと」に、必ず「あってはならないこと」があるとは限らず、「仕方がないこと」もあります。「仕方がないこと」は、処罰の対象にはなりません。

ただし、「仕方がないこと」だったからといって、それで関係者の責任や役割が無くなるわけではありません。

特に、医療の場合、「あって欲しくないこと」に携わることになった医師には、患者や家族の動揺や憤りに誠実に対処することが必要になります。専門的な知識や情報が医師の側に偏在しているからこそ、そうした姿勢が必要です。

それが欠けると紛争になります。

この紛争は、医師と患者、あるいは医師と家族の間の個別の紛争です。警察が介入しても、患者や家族の動揺や憤りが直接的に解消されるようなものではないはずですが、不満や不信、怒りを「御上のお仕置き」に振り向けることで解消できるような気分が生まれます。

そうした気分に乗って、「仕方がないこと」だったとしても、あたかも「あってはならないこと」であったかのように立件しようという風潮があります。とりわけ医療では、医療不信を背景にそれを支持するような雰囲気があります。

たしかに、家族が求めていた情報が警察の捜査によって明らかになるというメリットはあるかもしれませんが、それは、本来、医師や医療機関によって知らされるべきもだったのではないかと思います。医師や医療機関が、患者や家族にきちんと対応しきれなかった部分を、警察の捜査が補ったにすぎません。

医師や医療機関と、患者や家族とが、個別に良好な関係を築き上げ、納得することを目指すことが必要です。時には、紛争に発展し、補償が必要になるかもしれないし、簡単に解決できず、民事訴訟にいたることもあるかもしれませんが、当事者間の努力が第一です。

そうした努力を飛び越えて刑事事件として裁き、「御上の裁き」によるお仕置きで解決と考えるのは、個別の努力も、個々の納得も否定することにつながりかねないと思います。患者や家族が求めているものを手に入れる機会を奪いかねない危険をもっていると思います。「御上」まかせにしてはならないように思います。

「あって欲しくないこと」という状況に直面した患者や家族への対応を考えると、「あってはならないこと」への厳格な対応を、全てに一律に適用して問題が解決したと考えるべきではないと思います。たとえ、「仕方がないこと」で過失がなかったとしても、もっと、医師や医療機関が誠実に対応する責任を強調し、患者や家族が苦しみから解放され、納得できるような方向を目指すべきではないかと思います。

残念ながら、医師や医療機関が、「世間」の前で萎縮し、本来の責務を果たせていないような気がします。もっと、医師や医療機関が毅然とし、本来の責務を達成する必要があると思います。

また、「あってはならないこと」への刑事訴追を、誰もが納得できるような形で徹底するための高度な体制が必要だと思います。これによって、強引な「御上の裁き」を避けることもできると思います。同時に、刑事訴追を通した「御上の裁き」による天罰は、本当に患者や家族にとって望ましい事のかどうかについて、「世間」も当局も考えてみる必要があると思います。
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by gskay | 2008-08-29 20:12 | 安全と安心
刑事訴追のための能力の不足
福島県の産婦人科医の業務上過失致死をめぐる裁判の無罪判決をきいて、耐震偽装に巻き込まれた当初の出来事を一つ思い出しました。

耐震偽装が世間の注目を浴びている時、警視庁に捜査本部が置かれました。私たちのマンションの住民集会にも警視庁の担当者が説明にやってきました。捜査への協力依頼が主なものだったと記憶しています。その説明の中に驚いたことがあります。

警視庁には、建築の専門家がいないというのです。

外部の専門家に協力を求めるそうですが、警察独自の力では、捜査をやり遂げることは不可能です。自信をもって判断を独自に下すのは難しいのではないかと想像します。ただ、建築には建築主事という専門家がいて取り締まりができるという仕組みがあることはあるので、特定行政庁が主体的に取り組めばよく、警察や検察は司法上の実務を担当すればいいのだろうと、その頃は考えていました。

福島県の産科医の無罪判決をきいて、少し考えが変わりました。

この事件をめぐる警察の動きには、多くの医師が反対の声を上げました。ほとんど全ての医療の専門家が、患者の死亡という深刻な結果があるものの、医学的な合理性からみて適切な医療行為であり、業務上過失致死に問える問題ではないと疑問をむけ、警察や検察の方針に反発するという事態になりました。

産科医を逮捕し立件した警察は、このような事態を想定していなかったのではないかと想像します。医療の結果の深刻さからみて、有罪と考えたのではないかと思います。しかし、異例の逮捕勾留という強権を発動したにもかかわらず、無罪判決になりました。

この事件では、警察や検察に、医学的な合理性や常識が欠けていました。家族の感情や、蔓延する医療不信を背景とした主張しか出来ず、専門的な合理性をもった主張ができていません。患者の死亡と言う最悪の事態を回避できたはずだという主張の裏付けを何も出す事ができませんでした。それが、無罪となった理由だと思います。

医師の側から、警察や検察の主張を支えるような主張は、ほとんどなかったと聞いています。これは、医師たちが身内をかばったのではなく、警察や検察の主張に無理があったからです。

警察や検察に、医学の知識が欠けていたことが、このような事態を招いたと思います。医学の知識があったなら、このような強引な立件は無かっただろうと思われます。このような事態への反省もふくめて、「医療事故調査委員会」というような第三者機関が構想されています。その取り組み自体は、大切だと思いますが、だからと言って、警察や検察の能力不足を放置していよいのかどうかを疑問に感じました。

もし、合理性を欠いた強引な立件が繰り返されれば、医療は萎縮してしまうでしょう。しかし、あってはならないことが放置されてしまったら、医療が荒れてしまいます。そのどちらにもならないように、警察や検察による取り締まりや処罰の能力を高めておくことが必要だと思います。そのためには、警察や検察に医師を加えたり、警察官や検事に医学教育を施せばよいのではないかと思います。

同様なことが、建築にも言えるように思います。専門的なことを、国土交通省や特定行政庁、あるいは民間検査機関に頼らざるを得ない警察は、建築の不正に対して無力です。しかし、これも、専門的な知識や資格をもつ建築士を登用したり、警察官や検事に教育を施せばよいはずです。

ところで、建築に関しては、規制と取り締まりが、特定行政庁に集中しています。この状況では、取り締まりの手柄は、規制の手落ちを指摘することに他ならず、身内に傷をつけることになりかねません。このような状況を見直し、規制と取り締まりを分離すべきです。分離された取り締まりの役割を担う機関として、警察は能力を発揮することが期待できると思います。

医療にしても、建築にしても、専門家による自律や自治が、技術の向上のためにふさわしいと思います。しかし、それとは別に、逸脱してしまったことについては、警察や検察による厳しい取り締まりが必要で、警察や検察は、それを行うだけの能力をつけておく必要があると思います。

専門家には、警察や検察による介入への忌避感があると思います。その忌避感は、今回のような能力不足による無理な立件があると、さらに強くなってしまうと思います。これをきっかけに、自律や自治への自覚が目覚めるのは好ましいと思いますが、だからと言って、警察や検察の能力不足を放置してはいけないと思います。警察や検察の能力を向上させ、有効で的確な取り締まりをめざすという筋道も検討されるべきだと思います。
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by gskay | 2008-08-28 23:40 | 安全と安心
「占い」
科学への盲信と、占いへの盲信は似ていると思います。扱い方を間違えないように気をつけなくてはいけないと思います。科学には、あいにく無限の力は備わっていません。無限の可能性はあるかもしれませんが、無限の可能性があるのは、占いだって同じです。

<個人情報>担任が占師に児童の障害相談 秋田の小学校(毎日新聞) - Yahoo!ニュース


<個人情報>担任が占師に児童の障害相談 秋田の小学校

8月24日18時39分配信 毎日新聞

 秋田県男鹿市の小学校に勤務していた男性教諭(40)が、特別支援学級の男子児童について、保護者に無断で名前や障害の程度などを占師に告げ、治療方法を相談していたことが分かった。教諭は「子供の障害が良くなればと考え、相談した」と市教委に説明している。

 市教委学校教育課によると、教諭は07年初め、神奈川県内の占師を訪問。児童の名前や生年月日、障害の内容などの個人情報を伝え、「どうしたら良くなるか」と占いを申し込んだ。インターネットの「病気が治った」という書き込みを見て、この占師を知ったという。

 教諭が同4月、「占いで、岡山の治療師のところに行けば治る可能性があると言われた」と保護者に話したため、不審に思った保護者が学校に相談して発覚した。市教委と教諭は保護者に謝罪し、占師に連絡して個人情報を削除してもらったという。

 教諭は06年4月から同校の特別支援学級を担任しており、今春に県内の他の学校に異動した。同課は「保護者に無断で個人情報を漏らし、占師に頼ったことは不適切だった」と話している。【百武信幸】

このニュースに関して、この教諭の行為の是非が問題になっているようです。私は、この教諭の行為を肯定的には見ていませんが、問題の取り上げ方にも疑問を感じます。

市教委学校教育課の、「保護者に無断で個人情報を漏らし」というコメントは、「個人情報」というキーワードが入っていることが気になります。個人情報保護法の対象になる狭い意味での「個人情報」を意識しているかのような発言であると誤解されると思います。そのような法律があろうとなかろうと、公務員であるなら、守秘義務の方が強いしばりになると思います。法律の定めにはならないかもしれませんが、教師の職業倫理もあると思います。

「個人情報」というキーワードを使う事が風潮になっているように思います。このキーワードで、善悪を断定しようとしているように思いますが、かえって問題を曖昧にしてしまっているように思います。

仮に、個人情報という観点からの手続きが正しかったとしても、「占師に頼ったこと」は、「不適切」であったと、私は思います。

「どうしたら良くなるか」という意識の中に、教師が無制限な責任や権限を負っているかのような錯覚があったのではないかと思います。限定的な責任や権限の中で最大限の努力をすることは美徳だと思います。しかし、それを逸脱するのは、教師としては不適切だと思います。

人間関係が、単なる教師と生徒や家族という関係を超えて良好なものができていたのだとしたら、話は別かも知れません。とはいうものの、その場合、このようなすれ違いはおきないはずです。第三者から、馴れ合いという批判が出ることはあっても、当事者同士のすれ違いはないはずです。「不審に思」われてしまった程度の関係なので、良好な人間関係だったとは思えません。

また、記事で読む限り、保護者が教師に無制限の要求をしていたようにも思えません。教師の余計なお世話だったのではないかと思います。

ひょっとすると、保護者が充分な役割を果たしていないとか、不適切なことをしていたという事情を教師が見かねたのかもしれませんが、だったとしたら、児童相談所への通報などを行うべきであったと考えるべきだと思います。

教師が、勝手なことを教師の役割を逸脱して行ったことは不適切だったと思います。これは、相談の相手が、「占い師」だろうが、「医療機関」であろうが、不適切だと思います。

こうした手続きの問題や制度の問題が解決したとしても、「占い」が用いられたことについては、異なる次元から不適切だと思います。

「占い」を非科学的だからと退けるのは、この出来事を考える上では、適当ではないと思います。必ずしも、占いと科学を対局において考えてはならないと思います。むしろ、同じように危険なものと考えるべきではないかと思います。

この教師には、「何とかなるはず」、「できるはず」という思い込みへのこだわりがあったのではないかと思います。加えて、「絶対」を求めたのではないかと思います。

人は、「何とかなるはず」、「できるはず」という思い込みへのこだわりのあまり、「何か」を都合良く盲信して、現実から目を背けてしまいます。「科学」や「占い」は、その「何か」のひとつです。「科学」も「占い」も、人を盲信させる魔力があることは共通です。

「科学」であろうと、「占い」であろうと、いずれも「絶対」とは程遠いのが実情です。どちらも、盲信してはならない対象です。「占い」の場合、根拠に問題があったり、再現性が検証されていなかったりという欠陥が多いようです。これに対し、科学的な取り組みは、「占い」の反対にありそうですが、「わからないことはわからない」という重大な欠陥があります。科学は完成されたものではなく、しばしば、前提となる知見が崩されてしまうこともあります。

この記事からはわかりませんが、この教師は、まじめに「科学」的な解決策を探した挙げ句、現状では解決策がないという結論に落胆し、「占い」に頼ったのかもしれません。あるいは、はじめから、不完全な「科学」には背をむけて、「占い」に頼ったのかもしれません。しかし、「占い」も、絶対ではないということには気付かなかったようです。

ところで、この記事は明言はしていないものの、「占い」の盲信を批判するニュアンスが含まれていると思います。このように「占い」を盲信している人を諌めたり、批判したりすることは良くあります。しかし、「科学」を盲信している人を諌めようと言うのは、あまり多いことではないように思います。そう考えると、「占い」について冷静に批判的に考える方が、「科学」について冷静に批判的に考えるより簡単だと言えるかもしれません。

明らかなエセ科学やインチキに限らず、まともな科学の成果も、誤った取り上げ方をすると、とんでもない事態につながります。私は、耐震偽装の騒動や、食品の管理で問題になった出来事のいくつかは、「科学的な考え方」とされる考え方に問題があると思っています。考え方をかえたり、前提を検証すると、問題が問題でなくなってしまうような問題であったと考えています。

「科学」に対する盲信にしろ、「占い」に対する盲信にしろ、限界に対する無知と、「何とかなる」という思い込みに加え、「絶対」の過剰な追求が、問題への的確な取り組みを阻害したり、弊害をもたらしてしまうように思います。

もし、この教師が、「どうしたら良くなるか」ということに真剣に取り組むとしたら、他人任せにしてはいけません。自らが限界を克服するための挑戦をしたり研究をするべきです。障害が良くならないとしても、その児童が障害とともに生きていく上で不都合がないような環境を整えることもできると思います。

「科学」にしろ、「占い」にしろ、他人まかせにするための都合のよい口実としての「絶対」を捨てる必要があります。良くする方法がないという現実を理解したのであれば、どこかに良くする方法があるはずだという盲信を捨てるべきです。そして、自らが切り開かねばいけないということに気付くべきです。

もし、この教師が強い問題意識をもっているのなら、是非、他人まかせにせず、自らの力で問題に挑んで欲しいと思います。
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by gskay | 2008-08-25 11:33 | 安全と安心