カテゴリ:安全と安心( 45 )
参議院選挙から1年
昨年の参議院選挙では、耐震偽装発覚当時の国交省事務次官が当選しました。ねじれ状態にあって、次回の衆議院選挙では劣勢が伝えられる与党の議員として活動しているようです。議員のサイトをのぞいてみると、たまに更新されてはいるようです。ただ、相変わらず、耐震偽装や建築についての考えは、よくわかりません。

道路局長経験者なので、道路財源の問題については、複雑な立場ではないかと思いますが、感心したのは、水防や砂防についてです。土木を通じた災害の防止への熱意を感じました。盲目的で観念的な完璧主義の安全追求志向ではなく、技術の限界や、経済力の限界を見据えて、一歩一歩確実に進めるような発想をしているようです。

かつて官僚として考えたことについて、議員として発言するのですから、お手のものだと思います。座る場所と発言する立場が変わっただけなのかもしれませんが、議員として、得意なことに力を注いで欲しいと思います。

ところで、この議員の活動を目にして、災害に対する備えでも、土木についての発想と、建築や住宅の発想には、大きな違いがあることをあらためて感じました。

土木は、もっぱら、「公」の仕事です。公費を用いて、作っては壊すことを繰り返しながら、災害が防ぐための営みが続きます。

一方、建築や住宅は、「民」あるいは「私」です。災害を防ぐための営みも大切ですが、本来は、生活のためのものです。そして、固有な財産としての価値があります。

防災のための営みを、ひたすら続けなくてはいけない水防や砂防と、住宅の災害対策とを、同じ発想で処理しようとするのは乱暴なことではないかと思います。しかし、あの時は、そうなってしまったように思われます。それは、彼が、土木のエキスパートで、土木の立場からの災害への意識が高かったことにも関係しているのかもしれません。

また、耐震偽装発覚当時、違法建築の問題と、起きてしまった災害や切迫した災害への対応が、ゴチャゴチャであったことも気になりました。これについても、土木による災害への備えを専ら意識していたすると、納得ができます。

災害に対する基本姿勢や考え方には、いろいろなものがあり、一つではありません。根拠となる考え方は、状況によって変わります。一つの考え方だけで対応をごり押しすると無理が生じてしまいます。だからこそ、複数の考え方が用意されているのだと思います。

あいにく、耐震偽装では、土木で培われた発想が強く出過ぎてしまって、異なる考え方のバランスの調整がおろそかになってしまっていたように思われます。その点では、リーダーとしての事務次官という立場の彼の業績には疑問を感じますが、今の立場では、得意なことに、とことんこだわることは、美徳だと思います。

目下、次の衆議院選挙が、どのようなことになるのか難しい状況です。得意なことを活かすことと、政治の情勢にうまく適応することは別のことです。今後、苦労があることと思います。
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by gskay | 2008-07-29 13:48 | 安全と安心
禁止措置
危険と隣り合わせということは、世の中にたくさんあります。危険は少ない方がいいのは確かですが、危険なことを排除していくことだけが、安全確保の方策ではありません。特に、教育現場では、危険にうまく対処したり、安全を確保するのための配慮を教えなくてはいけません。

事故への反省は必要です。監督や監視、指導が不十分であった可能性もあると思います。しかし、引用の記事の「飛び込み禁止」という通達は、「何もさせなければ、事故はおこらない」という消極的な対応であり、教育の内容からも、安全確保の面からも、責任を放棄しているように感じられます。

高校水泳部困った 福島県教委が飛び込み禁止(河北新報) - Yahoo!ニュース


7 月22日6時12分配信 河北新報

 福島県教委が1日付で県立学校のプールでスタート台から飛び込む行為を全面禁止にした措置に、高校の水泳部員が困惑している。県立高校のプールに飛び込んだレスリング部員が死亡した事故を受けて出された通達だが、国体予選の県総体が目前に迫る水泳部員は大会に向けたタイム測定さえままならない。やむを得ず禁を破る高校もあり、水泳部関係者からは「経験を積んだ水泳部員なら危険はないのに」と通達解除を求める声が出ている。


 事故は6月10日、大沼高(会津美里町)で起きた。レスリング部の1年男子(16)が練習の一環で部員らとプールに入り、高さ約60センチのスタート台から飛び込んだ際、水深約1.2メートルの底に頭をぶつけ死亡した。

 付き添っていた部顧問は「飛び込む瞬間は見ていない」といい、詳しい状況は不明。県教委は「事故原因が分かるまでの再発防止策」として、スタート台からの飛び込みを禁止した。

 1、2年の水泳部員7人が8月の県総体や9月の新人戦に向けて練習に励む福島東高(福島市)では通達後、大会に届ける自己タイムの測定のためスタート台からの飛び込みを数回行った。届け出タイムで泳ぐ順番やコースが決まるため、少しでもいいタイムを出そうと、やむにやまれず踏み切ったという。

 同部顧問の藤田敏夫教諭は「通達は尊重するが、一生懸命練習する生徒に飛び込むなとは言えない。部員は経験を積んでおり、事故の心配はないのに…」と困惑。吉田雄基主将は「飛び込みをしばらくやらないと形が崩れてしまう」と影響を懸念する。

 県高体連水泳部の村上博専門委員長(福島成蹊高教諭)は「スタートはターンと並んで重要なポイントで、練習次第では大幅にタイムを短縮できる。部活動でも禁止するのはちょっとやり過ぎではないか」と指摘する。

 このまま禁止が続けば、例えばリレー競技は練習なしで本番に臨まざるを得なくなるなど、混乱は必至。水泳部関係者は「部活動だけでも早く禁止を解除して」と訴えるが、県教委は「再発防止策が決まっておらず、夏休み中に解除するかは分からない」と話している。

最終更新:7月22日6時12分
河北新報


事故原因は、飛び込みの指導と監督・監視の不十分さの問題だと思います。この事故の責任は、厳しく追及されなくてはいけないと思います。責任者は、覚悟しておくべきだと思います。その厳しさには、事故の再発を防ぐ効果もあると思います。

しかし、その辺を有耶無耶にしつつ、ややこしい理由をつけた挙げ句に、「何もさせない」という方針が出されてしまうのは、過剰すぎる反応だと思います。

確かに、やめさせてしまえば、問題は起きないので、ある意味では「完璧な事故防止策」です。しかし、それでは、本来の活動が損なわれてしまいます。

「再発防止策」というものが、多角的に検討されることを期待するとともに、どういう意味があるのかわからない全面禁止措置は見直されるように望みます。

航空機事故などでの全面禁止の措置には、技術的な理由で、同じ原因による事故が懸念されるからこそ、意味があります。そうした措置とは、同じに考えてはいけないと思います。

ただし、おしおきのような意味合いで、飛び込み全面禁止措置がとられているのであれば、教育機関での問題であるだけに、話は別です。
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by gskay | 2008-07-25 23:45 | 安全と安心
溶融スラグ
溶融スラグを混入したコンクリートの問題では、規格にあわない混入物ということで「違法」とされたものの、「溶融スラグ」というものは、すでに広く使われているようです。廃棄物の無害化の技術のみならず、リサイクルのための「製品」化の技術の改良が進んでおり、建築や建設のための材料として、大きな期待ができると思います。

この事件をきっかけに、溶融スラグへの警戒感や忌避感が生まれてしまったら残念です。様々な質の製品があり、それを一様に否定するような事は避けなくては行けないと思います。

JISなどの規格は、このような新しい素材については、「いち早く」検討し、基準を満たすものと満たさないものを明らかにするべきではないかと思います。それが、利用の促進にもつながり、技術改良の後押しになると思います。少なくとも、性能を検討し、どのような溶融スラグが適当であるのかを明らかにしておく必要があると思います。

現状では、充分な性能の製品がないのかもしれません。だとしたら、技術の開発のための投資が必要です。

もし、すでに充分な性能の製品があるのなら、今回の事件は、規格へのリストアップが遅れたことによって生じた問題という側面も出てきます。規格にあった製品が存在していたなら、問題の業者も、規格を満たした製品を利用したでしょうから。

「偽装」に対する一般的な「けしからん」という観念だけで対応してはいけない問題です。

将来的には、砂利よりも良好な溶融スラグが広く使われるようになるのではないかと想像します。それは、廃棄物の問題からみても、砂利という資源の問題からみても、望ましいのではないかと思います。

目下の問題は、この事件のような既存の性能不足にいかに対応するかですが、これを将来の問題と混同してはいけません。
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by gskay | 2008-07-13 00:35 | 安全と安心
「震度7に耐える力」の証明?
安全や安心に気を配ることは大切です。しかし、「絶対」ということはあり得ないというのが前提です。「絶対」とはいえないからこそ、性能を向上させる努力が必要です。

その一方で、「絶対」でないからという理由で拒絶してしまうと、何もできなくなってしまいます。どこかで妥協し、納得しなくてはなりません。

建築基準法で定められた基準以上の性能を希望することはできると思いますが、私的な交渉だと思います。その場合、司法の場で決着を目指しても、制限する根拠がないのではないかと思います。

適法とされた建物の安全性の問題を、今にも壊れてしまいそうな危険な建物に対する処分や、日常的に迷惑な建物に対する判断、そして違法と判断された建物への処分などと混同して考えることには疑問を感じます。

浜松のマンション建設に住民が差し止め申請、建基法レベルの耐震性では東海地震に耐えないと主張|ケンプラッツ


2008/01/21

 静岡県浜松市中区で進行中の分譲マンション建築計画に対し、このほど近隣住民が建築差し止めの仮処分を裁判所に申請した。建築基準法を満たすだけの耐震性では、東海地震発生時に倒壊する恐れがあると主張している。

 計画地は浜松市中区城北2丁目にあり、近隣住民の団体「城北1・2丁目住民の命を守る会」(細野透代表)が仮処分を申請している。同会によると、マンションは発注者がセキスイハイム東海(浜松市)、設計者がNEXT ARCHITECT & ASSOCIATES(東京・渋谷)で、施工者は未定だ。鉄筋コンクリート造、地上5階・地下1階建て、延べ床面積5251m2、住戸数52で、建築基準法レベルの耐震性を確保する計画となっている。

 「城北1・2丁目住民の命を守る会」はこの計画に対し、建基法レベルの耐震性では東海地震で崩壊して、近隣住民だけでなくマンション住民の人命も危うくすると主張している。守る会の資料によると、敷地周辺は東海地震で震度7が想定される地域であり、敷地は斜面の上部にあって地盤が弱い。建物と地盤が震度7に耐える力を備えていることをセキスイハイム東海が証明しない限り、マンションを建ててはならないという仮処分を下すよう、静岡地方裁判所浜松支部に申請した。

 仮処分申請の根拠として、最高裁判所が07年7月6日に下した欠陥マンションに関する判決を挙げている。建物は発注者や購入者だけでなく、利用者、訪問者や近隣の通行人にとっても安全でなければならないと認定する判決だった。

 裁判所が仮処分の申請を退けた場合には、近隣住民はセキスイハイム東海を相手取って、マンションが地震で倒壊した際の補償を約束させる訴訟を起こす予定だ。

住民が、建築主に私的に要求するのは構わないと思います。しかし、司法の場に持ち込んでも、住民に有利に進めるのは難しいのではないかと思います。そのような要求を公的に認めるためには、根拠が必要であり、それには何らかの立法が必要だと思います。

また、地震で倒壊した際の補償については、事前に約束するような問題ではなく、損害が出た場合に請求するべきことではないかと思います。その請求の相手も、建築主や売り主ではなく、所有者なのではないかと思います。なぜなら、建物を安全に保つ責務は、まず第一に、その時点での所有者にあるからです。もちろん、売り主、建築主、施工や設計に責任はあると思いますが、所有者の責任を飛び越えて、近隣住民にまで及ぶものではないと思います。あくまで、所有者の責任だと思います。もちろん、個別に約束するのは構わないと思いますが……。

そして、この記事で最も気になった点は、建築主が「震度7に耐える力」を証明する必要性の有無です。建築差し止めの請求をする側こそが、問題があることを証明すべき立場なのではないかと思います。その上で、その証明の内容に沿って、建築基準法では適法でも、制限を加えることができるのかどうかが、はじめて問題になるのではないかと思います。

続報として、

地震力を2割強く見積もる“静岡基準”でも東海地震に耐えない、浜松・マンション問題で住民側主張|ケンプラッツ


2008/01/28

 静岡県浜松市内でマンション建設に反対している住民団体は、建築基準法を満たすだけの耐力では東海地震に耐えないと主張している。静岡県では、建基法レベルの耐震基準が県外よりもやや高いレベルに設定されている。住民側はそれでも、東海地震がもたらす震度7の揺れには対応できないという見方をとっている。

 静岡県は県内の建物の確認申請で、構造計算の際に地震力の数値(地震層せん断力係数)を一般的な数値の2割増しで入力するよう申請者に求めている。東海地震などに備えた県独自の建基法の運用だ。

 住民団体「城北1・2丁目住民の命を守る会」の細野透代表は、建基法が想定する地震力を、地震動の加速度(単位:ガル)に置き換えた。一般的な建基法レベルの耐震基準は加速度400ガル程度、静岡県の基準は2割増しとなる同480ガル程度の地震動に耐えるとみている。どちらの耐震基準も、850ガル以上になる震度7の地震動には対応できないという見解だ。

 一方、静岡県は、地震力の数値を2割増しで入力するよう定めた静岡県建築構造設計指針で、この数値を定めた理由を「震度いくつ」や「○○ガルの地震動」に耐えるためとは明記していない。理由として、「(東海地震などで)県内のほぼ全域において震度6弱以上が予想され、また、極めて広い範囲において震度6強以上に予想される」ことを挙げている。県建築確認検査室の担当者は、「そもそも建築基準法の耐震基準は、震度という物差しでは計りにくい。上乗せした静岡県の基準も、震度7に耐えるかと問われれば、大丈夫とも大丈夫でないとも言いがたい」と話している。

 「城北1・2丁目住民の命を守る会」は細野代表の見解に基づいて、マンション建設を差し止める仮処分を静岡地方裁判所浜松支部に申請した。建基法の耐震基準と震度との関係について、司法はどのような判断を下すかが、注目される。

 問題のマンションの建て主であるセキスイハイム東海では、池沼敏彦・マンション事業部長が、「当社としては、建築基準法などの法令を順守して業務を遂行しながら、裁判所がどのような決定をするかを見守る」とコメントした。池沼部長によると、同社はこのマンションの建築確認を1月25日時点でまだ申請しておらず、申請先になる予定の指定確認検査機関と事前相談を進めている。

その後の展開はわかりませんが、判断の内容によっては、今後、様々な事業に制限を加えることが可能になる前例になると思います。より良い性能が目指されるのであればいいのですが、「絶対」などというあり得ないものを追いかけると、何もできなくなってしまうと危惧します。

また、続報によれば、建築確認以前の段階だとのこと。その段階で、このような請求ができるのかどうかも興味深いと思います。「建てるのであれば、強い建物を!」というより、「とにかく、そういう規模の建物はダメ!」という請求の内容であるような気がします。

どうやら、技術的な議論以前の段階の問題のようです。「証明」とか、差し止めというような段階ではないように思われるのですが……。
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by gskay | 2008-02-07 14:31 | 安全と安心
安全の全体主義
私は、所詮、耐震偽装に巻き込まれた一市民。得意とする専門分野は、全く別のところにあります。得意分野であれば、論争は望むところです。しかし、そうでないところでは、よくわかっていない分だけ、ムキになってしまうかもしれないと感じ、自重しています。ただし、自分が直接体験した事実については譲れませんが……。

こうして、いろいろと考えてつぶやいていることによって、いろいろなことに詳しくなってきたと感じています。専門外であるため、一種のディレッタンティズムのような趣味や造詣のレベルだと思ったことがありますが、当事者であることを考えれば、そんな悠長な立場を気取ってはいられません。

ところで、国権とか国家ということについて考えています。また、全体主義についても考えるようになりました。耐震偽装に巻き込まれ、今までイメージしてきた全体主義とは異なる全体主義があるのではないかと感じるようになりました。

全体主義に対して、私は、独裁的で独占的で排他的、抑圧的な権力の集中を想像していました。しかし、これらは結果であって必要な要素ではないと考えるようになりました。まして、軍国主義化も、全体主義の本質ではないと思います。秘密警察の存在は、排他的で抑圧的になった時にうまれる表面的な存在ではないかと思います。(秘密が表面的というところが、転倒していて面白いと思います。また、公然の秘密警察でないと、秘密警察は役に立たない訳で……。このエントリとは関係ありませんが……。)

戦前の日本の体制には、強力な権威はあったものの、独裁者がいたとはいえないと思います。そういう点で、他の国に対して用いられる全体主義という言葉でくくることに抵抗があるようです。しかし、独裁を必要な要素から外しても、全体主義と感じられるものはあったのではないかと感じています。また、軍国主義化ばかりが問題視されるべき対象ではないだろうと思います。

全体主義は、誰も現実の問題に責任をもって対応しない時に、萌芽するのではないかと思います。結果として、不作為による放置にしても、暴走にしても、破綻状況を生みます。そこに、権威などに対する強迫観念をともないながら、問題や失敗を認めることが許されない状況が加わって、花が咲くのではないかと思います。

肝心の責任担当者にとって、責任が明瞭な時には、隠蔽する。

自らの責任が不明瞭な時には、責任が及ばないように、小手先の対応をするとともに、責任の所在をますます曖昧にする。

本来の責任担当者が放棄してしまった責任は、権威などの強迫観念をともないながら、より末端の担当者に移ります。末端は、本来の担当者の無責任にこりているので、責任を担おうとします。しかし、それが無理で、さらに末端に押し付ける。これがエスカレートすることで、責任の空白地帯が広がり、ますます歯止めがきかない状況が出現します。そして、最末端にまで転嫁されきった状況が全体主義の完成状況ではないかと思います。

中には疑問を感じてるいる人がいるのに、曖昧な責任関係の中で、みなが同じ過ちをおかさざるをえなくなった状態。その状態が、全体主義の背景にはあるのではないかと思います。

強迫観念によって、誰もが真面目に励んではいるが、誰もが、責任逃れこそが第一で、無責任で何もしない状況です。この状況では、公式な形の強制はないかもしれませんが、社会全体が同じ方向を向くことになります。

また、異なる方向を目指す人がいて、その努力が実をむすぶことは、多くの人にとって、これまでの努力に反します。このため、足並みを乱すことと位置付けられて許されません。

みなで無益な努力をしています。実際は、無力感にさいなまれ、自信も、将来への展望も見いだせない状況です。強迫観念に依存していることが、当面の安心を与えてくれます。ただし、長期的な視点からみれば、問題を先送りにし、抜本的な対策を遅らせるだけです。

私は、このような背景を考えているため、独裁者の誕生を警戒することも、軍備について敏感になることも、全体主義やその弊害への警戒にはならないと考えています。

全体主義は、適当な権威が必要であることもあり、独裁者を生みやすいかもしれません。しかし、全体主義自体が適切に対処しないと破綻する運命をかかえているので、その運命と、独裁の悪が混同されているように思います。

仮に、権力や責任の空白に独裁者が取り組み、抜本的な改善がなされたとしたら、その独裁者は、「悪」とはいえないのではないかと思います。しかし、大抵の独裁者も無力で、全体主義によって祭り上げられているにすぎないため、破局まで暴走して終わることになってしまうのではないかと思います。

第二次大戦までは、戦争への対処が、国の切実な問題の一つだったと思います。このため、全体主義は、軍国主義を表に出す形で発展しました。

「勝ちたい」、あるいは、「勝たねば」というところまでは、無作為も暴走もなく、現実的でいられたかもしれません。しかし、それが、「勝つはず」にすり替わり、負けることを想定することさえ許されなくなって、軍国主義を表に出した全体主義になりました。

新しい技術に背をむけ、陳腐になったテクノロジーを基盤にした無駄な厳格化に血眼になりました。また、目の前の失敗を直視することができず、負けるという状況に適切に対応することができませんでした。さらに、その責任が、一般国民に刷り込まれる形で押し付けられら、数々の民間人の悲劇を作りました。

さて、耐震偽装では、一連の責任追及も、法の改正も、安全の確保につながる努力であったと評価することは難しいと思います。陳腐になってしまったシステムにしがみついているといわざるを得ないと思います。

一方で、安全という至高の目標について疑問をさしはさむことは許されません。

議論が不利になったら、先に「安全のために」といえば、議論を有利に進めることができるような強い力をもっと言葉になっています。

「安全をめざす」ことが、「安全であるはず」にすり替わり、安全に少しでも疑問がある状況を許すことが出来なくなっています。安全をめぐる実態を、直視することができず、しかるべき対処を怠っている状況にあります。

耐震偽装の初期にあったバッシング以来、そこかしこに、安全を軸にした全体主義の萌芽を感じさせる空気が蔓延しているのではないかと感じています。その空気にの中にいる当事者は、皆くそ真面目です。しかし、自分の責任がないことを主張しているにすぎません。自分の無力や無能力には目をつぶりつつ。

軍国主義に発展した全体主義は、現実離れした愚かなシステムにより、軍人のみならず民間人の命まで粗末にし、築き上げてきた財産や文化を破壊しました。安全を軸にした全体主義も、現実離れした愚かなシステムに発展し、われわれの財産を冒すなどの弊害をまきちらしていくのではないかと危惧します。

処方箋は単純です。現実を直視し、責任ある立場が責任をとりながら、最善の方法を取り入れつつ、もしもの時に最悪の事態をさける準備をしておけばいいだけです。この単純な処方箋では、「絶対」の安全はありません。より安全な状況が目指されているにすぎません。

「絶対」ではないからこそ、みんなで努力しなくてはいけないし、責任者は責任を意識し、失敗があったとしても現実の問題として対処しなくてはなりません。

また、それを現実のものにするためには、必要以上の責めを執拗に加えることで、みんなが満足するというような醜い心構えを排除しなくてはいけないと思います。

我々自身の現状の限界を直視し、謙虚に取り組むことによって、テクノロジーについても、失敗への対処についても、より優れたものにしていくことができるのではないかと思います。
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by gskay | 2007-11-05 12:51 | 安全と安心
不作為
公的な組織が、やるべきことをしなかったことで悪影響ががでることと、やりすぎて悪影響がでることは、同じ背景をもつ問題かもしれません。いずれも不作為です。やりすぎは、ちょうど良いところで歯止めをかけなかったという不作為の結果だと思います。

目の前の問題に真剣に取り組むというシステムがしっかりしていれば、程度の差はあっても、それなりの対応ができると思います。しかし、目の前のことから目をそむけ、規則や制度、人間関係などを重視すると、やり続けることが自己目的になって、やるべきことをおこたったり、やりすぎに歯止めがかからなくなってしまったりするのではないかと思います。

目の前の現実から離れたところに力を注いでも、問題の解決には結局つながらない徒労になってしまいます。徒労だとあきらめられれば、まだ良いのではないかと思います。

目の前の問題とは別のポイントを重視しているため、それを満足させるためには、問題が改善していないという現実を認めることは許されません。あげくのはてが、隠蔽ではないかと思います。悪事を働いているということよりも、どうにもならない事態に陥っていることに耐えられないと感じているからできることではないかと思います。

結局、本来の目の前の問題を大切にしていないため、不作為が積み重なってしまうのだと思います。

どのような問題があって、どのような目標があって、どのような方法をとるべきかを考えれば良いだけなのに、そこには力は注がれません。

目標が達成されていることを過剰に意識しすぎて、目標が達成されていないという事実から目をそむける。

従来の方法で対応できない問題なのに、新たな方法の検討には目をつぶり、厳密化やしめつけによって対応しようとする。

どうしても辻褄があわなくなったら隠蔽する。

規則や制度、人間関係は、仕事に励む動機にもなります。しかし、目の前の問題よりも優先してしまうと、それは、本来なすべきことに対しての不作為の元凶になってしまいます。
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by gskay | 2007-11-04 13:38 | 安全と安心
目標と失敗
「しなくてはならない」という目標や義務を定めた時から、それが達成できないことが「悪」になります。達成されていないことは許されないことです。許されないことだとしても、そのような状況は出現してしまうかもしれません。達成できていない状況や失敗という状況が出現した時の対応をおろそかにしてはいけません。

許されない「悪」は、存在してはいけないから「悪」なのですが、それは、存在して欲しくないから「悪」なのであって、存在しないわけではありません。逆にいえば、存在しているために「悪」と認識されます。存在しうる「悪」に対する対処を整えておかなくてはなりません。

軍隊は、戦争に勝つための組織です。近代国家、あるいは歴史上の国家も、戦争に勝つことがめざされていました。少なくとも、戦争で負けないように体制を整えてきました。勝利や不敗は、達成すべき目標です。必ず勝つということや決して負けないことは、前提ではなく、目標です。

戦前の軍隊も、戦争に勝つという目標をもった組織でした。ただし、その目標が達成されず、戦闘に負けたときに、どうするべきかということは、あまり準備されていなかったように思われます。負けた場合や負けそうな場合に、被害を最小限にとどめたり、少しでも有利な形で退却するという発想が欠けていたように思います。

そのような準備を怠ってきた原因は、必勝・不敗という目標が、必ず勝ち、負けることはないという思い込みに変質し、それがエスカレートして、負けるということを想定することさえ許されなくなったことにあると思います。

現実に、戦闘に負けるという事態に直面し、想定に限界があったために、上手に事態を収拾することができませんでした。収拾することができなかったばかりか、さらに悲劇をまき散らしてしまいました。

負けることを想定することができなかったことが、民間人自決にもつながるシステムの欠陥であったと私は思います。

不敗という目標があり、負けることは「悪」だからといっても、負けた場合を想定して準備しておかないことは怠慢です。「万に一つ」に備えなくてはなりません。

また、不敗という目標が、不敗という前提に変質することが、進歩し変化している技術や環境から目をそむけることにもつながりました。装備やシステムを最新で最良のものに常に保つという努力を怠り、陳腐になった古い道具に固執し続けることにつながりました。

本来、問題は、単に最新のものに更新すれば解決できるはずでした。しかし、問題が指摘されるたびに、古い道具についての練度をあげたり、動員をかけるとか、管理をきびしくするとか、検定制度を整えるというその場しのぎの小手先の対応が繰り返されました。

目標が前提に変質し、同時に、前提に反することがあってはならないし、あるわけがないという思い込みができてしまったために、現実を直視することができないという思考停止の状態にあったのだと思います。不敗という前提があるために、抜本的に問題を検討する努力を怠りました。

その結果、小手先にすぎないが大きな負担がかかる無益な努力に苦しんだにもかかわらず、当然のように負けた。そして、敗北への対応も稚拙で、混乱に拍車がかかった。

旧軍が陥ってしまったワナから、私たちの国の国家制度は、今も抜けられずにいるように思います。

軍事については、戦争に負けたことを契機に問題を直視しなくてはならなくなりました。本当に直視できているかどうかは別として、少なくとも、放置されることはなくなりました。

しかし、それ以外の分野では、誤った発想がいまだにはびこっているところが少なくありません。
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by gskay | 2007-11-03 01:03 | 安全と安心
強制
沖縄戦での民間人自決の経緯の教科書への記載をめぐる問題は、とても難しく複雑です。様々な意味で、うっかり取り上げることはできないデリケートな問題です。

歴史上の事実の問題として検証をすることは当然ですが、歴史上のことであるがゆえに困難が伴い、議論が必要になるのだと思います。また、いかに歴史を解釈し、いかに記載し、いかに伝えるかという態度が問われ、その思想的な背景にまで踏み込んでしまい、収拾がつかなくなってしまうのではないかと思います。

私は、さしあたって、軍による強制があったかどうかということと、「正式な命令」の存在の有無という問題は、必ずしも同じではないと思っています。強制があったという立場も、なかったとする立場も、同じことを別の立場から言っているのではないかと思います。議論のポイント自体に問題があって、すれ違いが生まれているのではないかと思います。

沖縄戦などの民間人自決は、公的な責任の所在がはっきりしないままに生じてしまった悲劇ではないかと思います。私は、この公的な責任の所在がはっきりしないとうこと自体が公的な「悪」であり、悲劇への歩みを止めることができなかった原因だったと考えています。

問題は、責任や役割という枠組みが崩壊してしまっていたことだと思います。曖昧な命令体制や責任体制のもとで、民間人自決のような重大な過ちがおきました。これは、国家の枠組みを逸脱し超越して生じた出来事です。ただし、国家機関の枠組みや権威を中途半端に残しながら。

軍の体制や意思決定のプロセス、戦争における民間人のありかたや軍との関係など、国家としての「正式」という基準で考えると不可解なことばかりです。民間人自決という大規模で非常に重大なことへ、国家の「正式」な手続きや責任という点について曖昧な状態でつき進んでいってしまいました。責任の所在を問うという議論の限界を越えた問題です。

特定の誰かが命令していたとしても、その命令に根拠があったとは到底思えません。なぜ、そのような根拠のないものを止めることができず、あのような重大な悲劇につながってしまったのかという点こそ問われなくてはならないと思います。

曖昧さが根底にある出来事であるだけに、強制があったという立場にも、なかったという立場にも根拠はあると思います。そこに固執して非難を続けることはお互いに平行線をたどるだけではないかと思います。曖昧が根底にある出来事であるがゆえに、責任という観点からの解明や断定は困難です。

視点をかえて検討すべきだと思います。これは、歴史をうやむやにしてしまおうということとは全くことなることだと思います。

現状のような視点で、強制があったとか、なかったとかということで議論をするのは、責任体制があったという前提の上で成り立ちます。その前提さえ崩壊していたという視点から考えることも必要ではないかと思います。これは、誰かが責任を放棄したという状況とも異なります。それなら、責任放棄の責任を問うことが出来ます。

責任がうやむやであるがゆえに、責任の所在を究明することには、あまり意味がないと思います。責任がうやむやになっていたという事態に一歩踏み込んで、この事態を批判的に理解する必要があると感じています。

この国では、肝心なときに、責任がうやむやになるのは、決してあの時だけのことではありません。本来の国のあり方などおかまいなしになり、あってはならない過ちをおかしがちです。

その時の状況や、そうなっていく過程を直視した時、信じられないような曖昧な状況が放置されています。それこそが、言葉のイメージとはうらはらに、「強制」の本性なのではないかと思います。
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by gskay | 2007-11-02 11:13 | 安全と安心
耐火性能偽装
「民間性能評価機関」が評価したと伝えたられています。「民間」であることに格別の意味があったとは思えませんが、「民間」による評価に対し否定的な風潮があるので、気にかかります。

それはそうと、厳格にするという方向性には限界があります。問題が生じないようにする努力は大切ですが、同時に、問題の発生にスムーズに対応する努力も要求されます。

耐震偽装では不毛な安全や安心に対するパニックが起こってしまいました。あまり良い前例ではないと思います。今回は、そのようなことがないように適切な対応がなされるように願っています。

耐震性能についても、耐火性能についても、問題が指摘されたとしても、何もない状態で建物が使えない訳ではありません。地震や火事という特殊な状況で、定められた基準を満たしていないということを意味しているにすぎません。この基準を満たしていないという事実を、安全とどのように関係づけて評価すべきであるかという点は、簡単な問題ではありません。

現在の基準を満たしていないがゆえに「安心できない」ということと、「安全でない」ということや、「危険である」ということは、必ずしも一致していません。そういう制度であるということを前提にして、冷静に対処しなくてはいけないと思います。

とはいうものの、「適法」な性能がないということは確かです。それに対しては適切に対処しなくてはなりません。

この国で建物の所有者になるということは、この「適法」を確保する義務も背負うことになります。その「適法」の確保のためには、売り主や施工者、設計者、監理者、それに検査機関、そして当然、このような製品を作った建材メーカーの責任を追及していかなくてはなりません。これは、黙っていれば「瑕疵担保責任」になどによって何とかしてくれるようなものとは限りません。(もちろん、資力がありあまっているなら、そんなことはせずに、自己負担で直してしまうこともあると思いますが……)

今回は、大手のハウジングメーカーが売り主になっているケースが多いようなので、しっかりとしたシステムでの対応が行われることを期待します。しかし、基本的には、現所有者の申し立てが必要になるわけで、それをきちんとできるように売り主や関係者が通告することが必要だと思います。

我が国の住宅は、一戸建てが主流であることもあり、この事例は、良い前例になるように期待しています。

ところで、この耐火性能偽装が、関係者そろって責任を負わなくてはいけないような重大な欠陥であるのかどうかは、裁判でもしてみないとわかりませんが、売り主も、この建材を利用した施工者なども、その覚悟で対応して欲しいと思います。

なお、耐震偽装では、施工の木村建設の責任について、少なくとも破産事件としては否定されています。ただし、その後、別の欠陥住宅の裁判で「重大な構造的欠陥があるなど違法性が強い場合」に購入者が直接契約関係のない建設会社や設計者にも賠償責任を問えるという最高裁の判断が出ています。そうしたことをふまえて対応すべきです。

「揺れるマンション」顛末記 : 施工や設計の責任〜最高裁

今回のケースについては、さすがに大手の業者が多いようなので売り主による適切な対応が行われると思いますが、そうでない場合、これが、「重大」であったり、「違法性が強い」といえるかどうかを問う事態に進展する可能性もあると思います。その場合、たとえ「重大」と判断されたとしても、施工や設計の責任は、「性能評価」に基づく設計や施工であるため、単純ではありません。

とにかく、所有者にとっては、面倒でやっかいな問題です。

今後、建材のレベルで、もっと深刻な問題が明らかになる可能性も覚悟しておかなくてはならないような気がします。

「ヒューザーのようなところでなく大手から買えば安心だ」とか、「マンションよりも一戸建て」と、さんざん非難されたことを思い出します。また、すでに否定されている「安物買いの銭失い」説もつらいものでした。そういう問題ではないと訴えてきたつもりですが、いざ、本当に思っていた通りのことが発覚すると、とても悲しい気持ちになります。建築基準法のシステムでは、大手だろうが、一戸建てだろうが、こうした違法性をさけることはできません。

ただし、問題発覚後の対応は、「違法性」とは別の問題です。

これについては、案外、資金力は重大な問題ではありません。ヒューザーの破産財団は、本当に破産という処理が妥当だったのか疑問がわくような規模でした。にもかかわらず、破産を申し立てられて破産しました。

そこから学ぶべきことは、パニックを乗り越える危機管理能力があるかどうかだと思います。これも「大手」かどうかとは、直接の関係はありませんが、「大手」にのし上がって、その地位を維持してる企業では、様々なノウハウが蓄積されているだろうと想像します。
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by gskay | 2007-11-01 10:28 | 安全と安心
エスカレーター事故
エスカレーターの事故については、幼い頃、デパートなどへのお出かけのたびに、恐ろしい話を聞かされました。同じように、自動車や列車の窓から顔や手を出してはいけないと厳しく言い聞かされてきました。

そんなこんなで、平塚のエスカレーター事故は、とても恐ろしいイメージがわき上がるいやなニュースです。

シンドラーとイーホームズの組み合わせだそうで、旧建設省の告示に違反していることが指摘されているようです。エスカレーターについては、シンドラーが世界最大のメーカーだったと思います。イーホームズも、業界では大手だったので、その組み合わせが多く存在することと思います。

違反された告示については、最大のエスカレーター業者が把握できていないというバカなことはないと思いたいところですが、ダメなようです。ということは、ただちにエスカレーターを持っている人は点検すべきだと思います。

その告示の基準で、この事故が防げたとはいえないかもしれません。告示の違反は、罰則などについては重大とは言えない問題かも知れません。だとしても、できる注意をして欲しいと思います。

ところで、「大丈夫?」と思われるような子供の危険な行動に、ヒヤヒヤすることがあります。しかし、何となく注意できずにいました。親に遠慮したり……。子供も生意気だし……。

これを機会に心を入れ替え、大人としてきちんと注意をしようと思います。
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by gskay | 2007-10-19 10:41 | 安全と安心