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退陣?
1989年に宇野首相が、1998年に橋本首相が参議院選挙の惨敗により退陣しています。退陣とはいうものの、政権交代ではなく、自民党内での交代に過ぎませんでした。本人が納得した上で、自民党に対し責任を負う形での退陣だったと思います。

今回の選挙結果により首相が退陣するかどうかは、衆議院で多数を自民党が占め、不信任案可決の可能性が低いため、単純に自民党内の問題のように思われます。

今後、自民党内で総裁を引き摺りおろすための動きが活発になり、規則に基づく手続きが踏まれるかもしれません。その場合は、本人がどう考えようと、仕方がないと思います。

ことと次第によっては、自民党が不安定になってしまうこともあるかもしれません。内閣不信任案が可決されるような状況も考えられます。その場合も、辞任するなり、解散総選挙にするしかなかろうと思います。

しかし、そういう事情が発生しない限り、「辞めない」と決めたなら貫いて構わないと思います。

今回、メディアの力や、「世論」とやらで、首相を引きずり降ろそうという流れが強いように思います。しかし、私は、そんなことになって欲しくないと思っています。

あたかも、本人が決断したかの様に追いつめるやり方は陰湿です。その陰湿な行為を、大っぴらにするやり方は、そもそも、公序良俗に反しているのではないかとさえ思います。それは、「いじめ」にも通じる愚かな品性です。

「世論」はともかく、メディアとは一線を画した上で、議会の中で決めるのが、この国の政治の仕組みです。そして、その議会を前提に、政党が機能しています。

メディアが、それを侵し、権力としてふるまうのは危険です。メディアは選挙で選ばれているわけではありません。視聴率や購読者数が目安になるかもしれませんが、国民の歯止めの届かないところにあります。強力な圧力にはなるものの、法に定められた権力ではありません。

今、参議院選挙の結果を受け、参議院選挙の意義以上の意味を無理矢理こじつけようとしていることに疑問を感じます。そのこじつけが、まかり通ってしまうと、もはや、議会の意味も、議院内閣制の意味も無くなってしまいます。何のために多数決の原則に基づく代表を選んでいるのかわからなくなってしまいます。

国民自らが選んだ代表とは別のところで決めてはなりません。

よく考えてみると、国民自らが選んだ代表をさしおいて、メディアと官は癒着し、幅をきかせてきました。一応、目立たないようにしたたかにこっそりと行われていたはずですが、今や、これが弊害をともなった問題として顕著になりつつあります。

もともとは、官僚も、メディアも、悪意をもってそうしているのではないかもしれません。しかし、彼らがしていることが、政治のあり方をゆがめてきました。しかも、問題がおこった場合、官僚も、メディアも、自らの無謬性という空想の産物を背景に、隠蔽や改ざんが行われたり、責任を曖昧にしたままに放置するということがまかり通ってきました。そうしたことへの反省の機会さえ無く、問題の繰り返し。その点に、もっと注意する必要があると思います。

「世論」を盾に、メディアが、首相に退陣を迫るというのは、定められた手続きをないがしろにしています。官僚の裁量と並ぶ、デタラメなやり方だと思います。また、そんな風土が土台にあるからこそ、官僚の裁量がここまで増殖してこられたのではないかと思います。

それにのせられてしまっている野党は、その危険性を理解していないのでしょうか?

私は、現政権に賛成するか反対するかとは別に、政権を投げ出さずに頑張って欲しいと願っています。政権に反対するからといって、手段を選ばず、政権を破壊することが許されているわけではありません。本人が嫌になってしまったり、あきらめたのなら、仕方がありませんが、決して、退陣が当然と言う状況ではありません。

その一方で、引きずり降ろそうとする側は、きちんとした手続きで引きずり降ろす努力をするべきです。自民党内にしても、国会議員にしても、そのための権限が付与されているはずです。そうした正規の権限を行使せず、メディアで包囲し、追い込んで自ら辞任させるようなやり方がまかり通ってきたからこそ、政治の表面に出ることがない官僚中心の支配がまかり通って来たのだと思います。

ここで、追いつめることによって首相が自ら辞任するようなことがあるとしたら、政と官の関係の改革が後退するどころか、反動に向かってしまうように思います。

これこそ、一種の「恐怖政治」では?

民主党の菅代表代行は、かつて、『大臣』というベストセラー新書を出しています。その中で、官僚支配の問題を指摘し、官僚のお手盛りから訣別するという理想を掲げていました。その内容には大いに共感します。

だからこそ、政権交代を本気で目指しているのなら、選挙による対決を制して実現してもらいたいと思います。外野に惑わされることなく。首相が退陣して、自民党から新しい首相が生まれたところで、民主党が目指す政権交代には、直接関係しない事に気付くべきです。安倍首相の進退に関わっている場合ではなく、解散総選挙そして政権交代に進むための確かな道のり築く事こそ、民主党がなすべきことです。

自民党を不安定にするための心理戦として、メディアに乗る形で、首相退陣を叫んでいるのだとしたら、大した策だと思います。しかし、用いた武器は、自らの首をも絞めるでしょう。

ところで、宇野首相や橋本首相がひきあいに出されますが、もし、ここで退陣することがあるとすれば、不人気でその座を降りざるを得なかった森首相のケースに似るように思われます。宇野首相は致命的なスキャンダルで進退が極まっていたし、橋本首相は政権末期で、しかも経済政策に迷走があり、いずれも引き時でした。

一方、森首相は、不人気を極めていたものの、致命的とはいかず、また、政策の行き詰まりを経験せずに済んでいます。任期満了による円満な退陣ではないにもかかわらず、現在も強い影響力を行使できる立場にいて、政局の行方を担うキーパースンになっています。見事だと思います。

そういう点では、もし、ここで不人気を理由に安倍首相が退陣し、かつ自民党が存続するなら、新たな「元老」として君臨できるかもしれないと思います。それも、良い選択かもしれません。ただ、今のところは、自民党の存続に不安があるため、それを選ぶ事はないように思います。そういう意味でも、安倍首相には、退陣に向かうより、喫緊の課題である公務員改革を通じて官僚の裁量の打破を、一か八かで片付けて欲しいと希望します。

今、ここで、「世論」とやらに屈して、安倍首相が退陣することがあったら、政治が政治の仕組みによって決まるのではなく、外からの雑音で決まってしまうことになってしまいます。その、雑音の発生源に対する歯止めを、私たちは持っていません。メディアの増長と、官僚の裁量に無制限の権力を与え続けてはなりません。

安倍首相は退陣しないという方針とのこと。辛い決心だと思います。また、下手をすれば、次の総選挙で政権を奪われるという役回りを演じなくてはいけないかもしれません。だとしても、政治の中で政治が決まっていく仕組みを確立するために、どうしても踏みとどまって欲しいと思います。法律でもなければ、代表による政策議論でもない、全く異なる仕組みで、「公」が恣意的にねじ曲げられることに抵抗して欲しいと思います。

「美しい国」が何をさしているのかわからないという批判があります。官僚とメディアによる恣意的な支配の暴走に幕をひき、国民の代表の手に権力を取り返すという壮絶な闘争を、生々しく表現するのははばかられて、そんな表現になったのだろうと思われます。
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by gskay | 2007-07-31 09:34 | 政治と役所と業界
民主大勝、自民大敗?
統一地方選挙の年の参議院選挙は、自民党が不利になるとはいわれていました。例外は、衆参同日選挙をした場合。地方組織が、きちんと機能するかどうかの違いだと言われているようです。

「亥年現象」と言われて、投票率が問題になっていましたが、それは、投票率の低下傾向とあわせて考えた時の問題で、「亥年」は地方組織が動かず選挙運動が難しいことが第一の意味だったと思います。

地方選挙が終わってしまうと、地方政治家は政党の選挙活動よりも、地方の政治に身を入れるようになります。任期が4年なので、自分の選挙を前提とした参議院選挙への応援は、この次の参議院選挙で間に合います。このため、地方組織が頼りの政党が不利になってしまいます。

もし、衆議院選挙を同時に行うと、衆議院議員の組織もフル活動すると同時に、次の地方選挙の前に衆議院選挙が必ずあるとは限らないので、地方政治家による応援にも熱が入ります。

それをわかっていながら、衆参同日を選ばなかった割には、自民党が善戦したと思います。少なくとも比例で、議席を減らしていません。

2001年の選挙との比較は困難です。あの時点では、自由党が民主党とは別の政党でした。自民党の独壇場となった上に、前首相への人気の効果が加わっていたからです。

比較の対象とすべきなのは、2004年だけです。それも、郵政問題以前の選挙であるため、国民新党および日本新党が分かれる前であったという条件を加味して考える必要があります。

国民新党が、今後の政局でどのように振る舞うのかはわからないものの、自民党に勘当されたり、自民党から家出したりして出来たような政党なので、自民党の一部とカウントしてもいいのではないかと思います。つまり、比較の対象となる2004年の自民党の選挙結果は、国民新党の分を差し引いておかなければ比較はできません。

そう考えると、自民党への支持が下がっていると考えるのは誤りではないかと思います。

一方、民主党は、比例でも議席をのばしています。これは、自民党から議席を奪ったというより、自民党以外の政党から議席を奪ったと考えるのが妥当ではないかと思います。具体的に民主党に議席を奪われたのは、公明党。加えて、社民党。影響は少ないようですが、強いて言うなら共産党。

新党日本については、代表の個性に依存していて、国民新党と同様に自民党から飛び出して出来た政党という色合いは薄まっているので、よくわからない存在だと思います。昔の、いじわるばあさんや木枯らし紋次郎がなし得なかった個性での当選を達成しているようで、主張への是非はともかく、意義深いと思います。

議席を確保できなかった政党・政治団体のうち、イーホームズの藤田社長が応援していることもあって、「9条ネット」には注目していました。政党として議席を得るのが難しいばかりか、肝心の天木候補個人の得票も、たとえ、大政党からの出馬でも当選は難しい数でした。仮に自民党から出馬して、藤田社長が気に食わない候補と対決しようとしても、気に食わない候補の上にたつことはできなかっただろうと思われます。

日本新党が既存の政党として扱われ、メディアに出る機会があったのに、他の政治団体にはそれがなかったことは、大きく響いているのかもしれません。全く新しい政治団体を作っても議席を取るというのは、並大抵のことではできないことのようです。

さて、比例で見る限り、自民党は惨敗していません。

しかし、選挙区では、惨敗です。これは、自民党が惨敗したというより、自民党と公明党の選挙協力が惨敗したということだと思います。

前回の衆議院選挙は、この選挙協力が成功しました。しかし、今回は、惨敗です。

もともと、自民党が単独で衆議院の小選挙区や参議院選挙区の一人区で勝つのは難しく、選挙協力によって競り勝っていたにすぎません。その選挙協力が、良い選挙結果に結びつかなくなってしまいました。

地方組織では、自民党組織と公明党組織が簡単に連携できるものではないと思います。

公明党との長期の連立のため、自民党の地方組織の結束が崩れたと考えることもできます。ただ、比例の結果を見る限り、そうとは言い切れない部分があります。責任をとって役職を辞任するという自民党の幹事長は、実は、それなりに良い成果を出しているのではないかと思います。自民党支持者を失ってはいません。問題は、選挙協力がうまくいかなかったことにありそうです。

ところで、公明党の場合、自民党をパートナーにし続ける理由が希薄です。このため、公明党が一枚岩を維持できなくなった可能性があると思われます。国政に代表として参加している面々には、連立を是とせず、むしろ、民主党の方に親しみを感じている勢力もあるのではないかと思います。少なくとも、自民党との選挙協力のメリットは失われました。

新たな枠組みに向けて、公明党がどのように振る舞うのかが、重要だと思います。公明党がキャスティングボードを握っているという点よりも、公明党内で、既存の連立をとるか、民主党をとるかでもめることが考えられ、その結果次第で、今後の政治勢力の枠組みが変わってしまうと思います。

もちろん、民主党の方も寄せ集めで、一つの政党を作っているが、選挙協力と変わらないくらいの弱い絆しかないようなので、どうなってしまうかわかりませんが……。

今回の選挙は、民主の一人勝ちです。選挙のための政党として、しっかりと機能を果たしたと思います。一方の自民は、選挙協力に失敗したものの、大敗という状況ではないようです。ダメだったのは公明党で、今後のパートナーをどのように選ぶのかよく考えなくてはいけないと思います。また、社民が民主の割を食っているようです。

2004年と同じ傾向が続いており、そこに与党の選挙協力失敗が加わった選挙結果ではないかと思います。

ところで、もし、同日にしていたら、政権交替が実現していたという意見もあるようですが、これは何とも言えないと思います。今回の地方区は、接戦を制した結果であり、逆転もありえる範囲だったと思います。

もし、自民党と公明党の選挙協力がスムーズな場合、郵政選挙ほどではないにしても、与党が勝った可能性があります。衆議院でも、参議院でも。

それを、与党として選択できなかったのは、公明党に煮え切らない態度があったからだと思います。参議院の地方区で負けたところで、政権を下りる必然が生じることはありませんが、衆議院での負けは、直接、政権交代を意味します。それだけのリスクを自民党が望まなかったということだと思います。

公明党の方も、連立を固守しようというなら、同日選挙を行う価値を認めたのではないかと思います。あるいは、連立解消、選挙協力解消をするという決断をした場合でも、今回の参議院選挙の結果を先取りする形で、同日へ進む可能性があったのではないかと思います。

結局、公明党がどちらにも踏み出しませんでした。その結果が、これまでの選挙協力のままの単独の参議院選挙であり、それが公明党の不振につながったのではないかと思います。

今後、公明党の動向次第で、衆議院がどうなるかが決まります。選挙協力を背景にした勢力分布に対し、清算が必要な事態が生じるかどうかにかかっていると思います。

なお、選挙区での自民党の不振には、ベテランの不振も重なっているようです。実力があるベテランが年齢に足をひっぱられてしまうのは残念です。人材として活用すべきです。若返りがそれほど望ましいことだと、私は思いません。年をとっていても、鋭い人の意見には耳を傾けるべきだと思います。

特に、片山参院幹事長の落選は残念だと思いました。自治省出身で官僚として活躍した後に政界入りしている人ですが、衆議院と参議院の存在意義の違いや、現在の選挙制度を背景とした政権のあり方を明確にすることができる人物で、官僚支配に対抗できる希有な政治家であっただけに残念です。官僚の利益に走る官僚出身議員も少なくない中、この人は、官僚経験を活かした政治姿勢であって、官僚べったりでないところを好ましく感じていました。官僚やメディアにとっては、うるさい議員だったと思います。この人に、代われる人材はいないのではないかと思います。

なお、官僚出身では、佐藤前国土交通事務次官が比例で当選しています。指定席だという下馬評でした。耐震偽装事件への対応の責任者としての説明は何もなかったので、個人的には好感を寄せることができない候補でしたが、この当選を受け、耐震偽装事件が風化せずに問題として残りうる余地ができたように思います。

特に、次回の衆議院選挙で政権交替が起きた場合、様々な点で注目の対象になりうる要素を持っていると思います。その前に、公務員制度改革を行って、きちんと内閣や議会が官僚の所行を追及できるようにしておくという前提が必要ですが……。

防衛関係は、英雄を投入した甲斐があったようです。ただ、組織選挙というより個人の知名度に頼る選挙になったように思われます。軒並み強力な支持母体を背景とした組織選挙で当選をめざす自民党の比例候補が、党が擁立した知名度の高い候補に破れているところも、今回の選挙の特徴ではないかと思います。少なくとも自民党に関しては、様々な政治団体が集まって政党が形成されているというより、「自民党」という看板と、候補の知名度で選挙を行っている形になっているように思います。

翻って民主党は、比例の個人得票の当選ラインは、相変わらず自民党の比例の当選ラインより低く、党名での投票が多いようです。もし、現在は自民党側から候補を擁立している勢力が、民主党から候補を出せば当選しやすいということでもあります。

これは、個々の勢力にとって、今後を考える上で、とてもややこしい状況だと思います。自民党が自民党らしくなくなっていて、これまでの組織にとって都合のよい政党ではなくなっています。

今後の政界再編がどのようなものになるか、私にはわかりませんが、アンバランスな部分が大きいので、相当もつれると想像しています。表面で、水面下で、とても複雑な展開があるものと想像します。
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by gskay | 2007-07-30 05:20 | 政治と役所と業界
「天下り根絶法案」
民主党のこだわりのようです。

Yahoo!ニュース - 時事通信 - 天下り根絶法案、参院に再提出=与野党逆転なら−民主・鳩山氏


7月28日17時1分配信 時事通信

 民主党の鳩山由紀夫幹事長は28日午後、青森市内のJR青森駅前で街頭演説し、「参院を(与野党)逆転させて、民主党が主導権を取ることができたときに天下りを認めない法案を参院で通していく」と述べ、与党が過半数割れした場合、「天下り根絶法案」を参院に再提出する考えを示した。

私は、与党が打ち出している公務員制度改革の方向性に比べて、後ろ向きな方針だと思います。

与党が問題にしているのは、天下りという表面的な現象ではないと思います。問題は、官僚の裁量です。

官僚に裁量があり、利権の誘導を伴うために、天下りが盛んになるというのが、現在の構図です。利権誘導を強化するため、官僚は裁量の拡大の方向に突っ走ります。拡大する利権を目当てにますます天下り官僚を欲しがる企業が増えます。

もし、天下りが裁量から切り離されてしまえば、利権を天下り先にもたらすことができません。天下りと利権誘導と官僚の裁量との関係を断つことが必要だという考え方で公務員制度改革が行われているように思われます。

利権誘導を伴わずに天下りをするというのなら、単純にその人材の能力だけが評価の対象になります。人材活用の点でも、雇用の流動性を高める点でも好ましいことだと思います。

また、利権誘導と天下りが切り離されてしまえば、官僚の裁量を拡大する動機が減ります。官僚の裁量が増えても、それは官僚にとって負担となる仕事でしかなくなり、メリットがありません。何の得もないのに、仕事の負担を増加させようとは思わないものではないかと思います。

官僚が利権誘導が不可能になり、さらに裁量の拡大への動機を失ったとき、ようやく選挙で選ばれた代表による政治が可能になります。

今の政治家は、腐っていて信用できないかもしれませんが、一定の期間毎の選挙によって落とすことができます。政権交替もあります。そうなると、次の大臣に悪行を暴かれてしまうかもしれません。利権をめぐる悪行に関しては、官僚の裁量を放置している仕組みより抑制される可能性があります。

官僚まかせでは、官僚に対し、国民の直接の審判は届きません。利権についての判断も、裁量に関しても、政治家の手にゆだねるべきで、現状のままの官僚の裁量を放置してはいけません。

また、民主党の方針は、高齢化によるキャリアの多様化や、人材活用、流動化に反しているし、官尊民卑への処方箋にもなっていません。

とりあえず、本気で政権の受け皿になろうとするなら、方向性をしっかりとして欲しいものだと思います。現在の民主党の方針は、官僚を含めた公務員体制の維持のための反動的な政策のような気がします。それでは、国民が、国のあり方を決める主体にはなれません。

どんなに、腐った政治家でも、手が届くところにいる政治家が権限を握っていることが大事です。手が届かない官僚に委ね続けてはなりません。

民主党が参議院で優勢となったところで、衆議院があるので、「天下り根絶法案」が通る懸念はないものの、こんなものにこだわったままで、政権を担当できるのか不安に思います。(まあ、耐震偽装の対応の時から、民主党には醒めていますが……)

ところで、議席を確保できていない政党・政治団体に関しては、マスメディアの取り上げ方が冷淡なようです。良い主張をしていたとしても、なかなか議席には届かないだろうと思います。

イーホームズの藤田社長が応援している候補は、外交官出身でありながら、官僚の裁量による支配を重大な問題と認識している点で共感できます。ただ、個々の政策についての主張や、そこに属している人材にちぐはぐな点があると思います。仮に当選者を出すことができたとしても、政党としてやっていくのは難しい状況だと思われます。

ここで、あきらめず、また、既存の政党に吸収されず、次回にむけて頑張り続けられるかどうかが問題だと思います。仮に当選しても、きちんとした政治勢力として国政に影響力を及ぼすには力不足です。当選者を出せなかったとしても、次のチャンスをうかがうべきで、そのためには、仲良しグループという状況を克服しなければいけないと思います。

新しい本格的な政党の誕生を期待しています。長い歴史の中で離合集散をしてきた政党にはない主張をしてほしいと思います。まだ、そのレベルに達しているとはいえないようですが、まだまだ、助走段階だと思います。

いじわるばあさんにも、木枯らし紋次郎にもできなかった困難な試みが、新しい政党には必要です。参議院の存在意義を、戦後直後の古い観念でとらえていて、比例代表が導入されたことを、衆議院の小選挙区化との関係で理解できていなかったことが、いじわるばあさんや木枯らし紋次郎の限界だったと思います。これからの新しい政党には、まず、それを乗り越えてほしいと思います。

現在の制度は、議員内閣制をしっかりとし、国会が国権の最高機関として、内閣を通じて行政を行う仕組みを目指しています。その前に、官僚から裁量を取り上げなければいけません。また、民意を多数決の原則に従って反映させるとともに、少数意見を尊重する仕組みが必要です。

そうした制度整備が進められる中で、いじわるばあさんも木枯らし紋次郎も、議会の中での議論という枠から踏み出すことが出来ず、置いてきぼりにされてしまったのだと思います。いじわるばあさんも木枯らし紋次郎も政治家としては、とても優れた人だったと思います。特に、いじわるばあさんが首長を勤めていた役所に勤めていたこともあって、好きな政治家でした。ただ、国政においては、時代の変化に取り残されてしまったと思います。

民主党に同じような鈍さを感じます。小さな勢力ではなく、政権を担おうという勢力だからこそ厄介です。さしあたっては、反動体制になって、政治家として自らに託された責務と、その実現の可能性を封じてしまわないことを望んでいます。政治家が議会にひきこもり、本当の課題から目をそむけ、お互いのあげ足とりばかりに励んでいるようでは困ります。

一方、議席確保をめざす小さな新しい政党に、可能性をもった芽を感じますが、まだまだです。きちんと育てば、離合集散とは一線を画す政党としては、公明党以来です。政党助成などの制度により、国政を担う政党が実質的に公営化されてからは、まだありません。

ところで、公明党に抵抗感がある人にも、公明党の主張だということを隠すと、その主張にはうなずけるところがあったりします。そうした点で人を惹き付けて行く方向には発展の余地があり、小さな政党も急速に成長するかもしれないと思います。

そのためには、切り捨てなくてはいけない部分が多いとは思います。そこが難しいのでしょう。これは、公明党にとっての限界でもあります。議席確保をめざす小さな新しい政党にとっても難しいことで、だから、苦戦しているのだと思います。
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by gskay | 2007-07-29 00:00 | 政治と役所と業界
正規雇用?
選挙とからめて取り上げているところは、良い着眼点だと感心します。しかし、「正規雇用」あるいは「非正規雇用」という用語の使い方に、私は疑問を感じます。「雇用」ということの意味や、社会保障の意義について、誤解を与えるのではないかと感じられる記事です。

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 【「まつりごと」の意味】(4)正規雇用は善? 政党の発想転換は可能か 


7月27日7時51分配信 産経新聞

 「人間関係で気を使うのが嫌で派遣社員を選んだ。別にこき使われているとは思っていない。年休もあるし、収入も贅沢をしなければ十分」

 新宿区内の商業施設で受け付け業務を担当している古川香織さん(26)=仮名=は、JR中央線沿線のアパートで1人暮らし。時間当たりの賃金の安さ、厳しい労働環境などが近年大きな社会問題となっている「非正規雇用者」の1人だが、世間で言われているほどの“悲哀”は感じたことがないという。

 古川さんは、北海道の農家の出身で、地元の高校を出て都内の調理師専門学校へ進学。専門学校卒業後、都内の飲食店に正社員として就職したが、人間関係に悩んで間もなく退職した。

 「居心地がすごくいい。嫌な先輩も上司もいない」と語るように、今の職場とは“相性”が良いため、3年前から勤務している。しかし、冒頭に述べたような理由で、正社員になろうとは今は思っていない。

 《総務省の労働力調査(平成18年平均)によると、パート・アルバイト・派遣社員などの非正規雇用者は全国で1677万人。特に14年には43万人だった派遣社員は、18年には128万人と約3倍に急増している》

 古川さんのように条件が比較的恵まれた派遣社員がいる一方で、非正規雇用者の「貧困」「格差」などが近年、大きな社会問題となっている。今回の参院選でも、非正規雇用者対策を各政党が重要政策として掲げているが、年金問題などの影響でかすんでいる観もある。

 「投票には行ったことがない。多少はテレビのニュースを見るので、税金がきちんと使われていないことには腹が立つ。ただ、今まで自分の生活の中に『政治』が反映された実感がないから…」。古川さんは、今回の参院選も行くつもりはない。

                   ◇

 ベストセラーとなった「下流社会」(光文社新書)で「下流」という言葉を世間に定着させた消費社会研究家の三浦展氏(48)が、17年の郵政解散時の若年層の投票行動を独自に調査したところ、フリーターや「ニート」と呼ばれる「下流」層が、小泉純一郎前首相を支持して投票に行ったケースが多いという結果が出た。

 「小泉前首相は、普段は砂のような非正規雇用者を、サーカス(劇場型の政治)で組織化した。ただし、『おもしろそうじゃん』と、イベントとしてみせることに成功しただけ。彼らは決して政治への関心が高くなったわけではない。砂が固まるのは一瞬で、その後はすぐに流れていってしまうもの」

 さらに、三浦氏は「政党は基本的に『非正規雇用はかわいそうだ、みんな正社員にしましょう』と言っているが、この考え方自体がズレているのではないか。フリーターのままでいいという人もいる。彼女もいない、子供もいないのに正社員になる必要はないと彼らは考える」と指摘する。

 そうであるのならば、政党はこれまでの「正規雇用ありき」の発想を転換しなければならなくなる。

 三浦氏は「非正規雇用と正規雇用の間を自由に行き来できる、非正規でも安心して生活できる、というメッセージをどの政党が最初に打ち出せるか。このメッセージを打ち出した政党が、若年層をはじめとする非正規雇用者の大きな支持を得るだろう」とみている。

「正規雇用」とされる「雇用」では、企業や事業所である「雇用者」に社会保障の負担が生じます。しかし、「契約」であれば、それを免れます。「解雇」の煩わしさは、「契約解除」にはありません。そもそも、「非正規雇用」は、「被雇用者」のニーズから普及したものではないと思われます。それを、非正規雇用されている者にとってメリットがあるように書いている点が疑問です。

引用した記事で肯定的にとらえている「非正規雇用」の自由度を、正規雇用でも実現することは大切だと思います。しかし、「非正規雇用」そのものを肯定することはできないと思います。

「非正規雇用」は、雇用する側にはメリットがあるかもしれません。しかし、社会全体から見るなら、社会保障を脆弱にしかねず、経済全体にも悪影響をもたらしかねません。そこから目をそらし、「非正規雇用」の一面にすぎない個人の「自由」を賞賛していることに疑問を感じました。

ところで、建築などの業界では、職人や技術者がひとつの事業者となって最終的な現場で働いているケースが多々あります。私は、そこにも耐震偽装の発生の素地の一つがあったのではないかと思っています。複雑な下請けの仕組みが責任関係を曖昧にし、誰も責任をとらない仕組みが出来ていたように思います。

加えて、コストカットのしわ寄せを現場に押し付けるような仕組みになっていて、元請けは、大した管理もせず、リスクの負担もなく、そのような仕組みの上にあぐらをかいていたのではないかと思います。

職人が離職し、今度は、職人不足が賃金を上げていると言います。そのコスト上昇は、建築主や買い主に押し付ければいいのかもしれません。そういう中間に介在する組織にとっては、「非正規雇用」であるがゆえに利益を確保しながら存続できるのかもしれません。

中間に介在する組織にとってのメリットは大きいのかもしれませんが、「非正規雇用」される職人にとっても、消費者にとっても、必ずしも好ましいものとは言えないのではないかと思います。

さすがに、「正規雇用」にまでは踏み込んでいないものの、中間業者の排除という方向性を、ヒューザーは打ち出していました。責任の分散はしづらくなります。しかし、中間マージンが減る分、職人の取り分は多くなり、価格は安くなります。業界の構造そのものに挑戦するような企業戦略を打ち出した矢先に耐震偽装事件が発覚しました。

「非正規雇用」の集合体である建築業界は、システム自体が、高度な技術によって行われる建築に対応できていないように思われます。このような仕組みの問題点を、もっと直視すべきです。

それでも、「非正規雇用」のメリットがまさるというのであれば、「非正規雇用」の肩をもつべきかもしれません。複雑な下請けシステムも肯定すべきかもしれません。

しかし、私には、それを肯定できるような要素を見いだすことはできません。

また、建築業界のように、すでに「非正規雇用」の形態が一般的な業界ならまだしも、「正規雇用」と同じ仕事を「非正規雇用」でさせるというのは、弱い立場で働くことになるだけで、メリットなどないと思います。

肝心なのは、「正規雇用」に「非正規雇用」のような働く上での「自由」を確保することです。

(ところで、記事に取り上げられた「古川香織さん」の正規雇用時代の悩みは、非正規雇用によって解決したのではなく、職場を変わったから解決したというだけのことだと思うのですが……。非正規雇用を肯定する根拠にはなっていないように思います。)
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by gskay | 2007-07-27 10:37 | いろいろ
気に食わない候補
選挙制度は、票を積み重ねて当落を競うだけの仕組みなので、マイナスの評価を選挙に反映させることはできません。従って、どんなに気に食わない候補がいたとしても、その候補が票を集めることができる限り、当選してしまいます。気に食わない候補がいても、落選させようと言う直接的な運動は成立しません。

気に食わない候補の当選を阻止する対抗策は、その候補に対立する候補を支持して当選させ、定数を埋めてしまうという間接的な方法しかありません。ただ、現状では、対立候補も対立候補で今イチであったりするため、結局、あきらめて無関心や無投票にならざるを得ない雰囲気になってしまっているのかもしれません。

ところで、選挙区であれば、対立する候補を応援するというのは、単純です。しかし、比例区、それも非拘束名簿方式の参議院の場合は、単純ではありません。

気に食わない候補がいるからといって、その政党に背をむけることが、気に食わない候補への対抗には必ずしもなりません。別の政党に投票すれば効果があるように思えます。しかし、その政党の当選者数が多少減るかもしれませんが、必ずしも、気に食わない候補に影響するとは限りません。

そもそも、1議席を確実に減らすためには、120万票も動かさなくてはなりません。また、その候補もそれなりに票を集めていると思われ、当選できる順位を得たなら、政党全体の当選者数はともかく、その候補は当選してしまいます。

現実的に、気に食わない候補に対抗しようとするなら、その候補の政党内での順位が下がるように投票する方が確実です。動かさなくてはならない票数は、政党全体に打撃を与えようとする投票よりも少なくても済みます。

もし、それだけの力があるのなら、その政党の中から挑戦するのも、気に食わない候補への対抗の方法になると思います。それだけの票数を動かせる力を、政党は指をくわえて見ている訳がありませんから。

今の所、比例で気に食わない候補の当選を阻止する方法は、その政党の他の候補に頑張ってもらうのが一番です。もし、頑張ってもらいたい候補が得票を充分に延ばせず、当選順位まで届かないと、気に食わない候補が有利になってしまうというのが、最大の難点ですが……。

前回の参議院選挙では、比例で防衛関係者が2人立候補し共倒れをしています。たしかに、そういう共倒れを誘導するのも方法かもしれません。ただ、気に食わない候補がそういう共倒れにおちいるような支持基盤であるとは限りません。得票を減少させるような方向で対抗策を考えるのは難しいように思います。

ところで、防衛関係では、その反省のためか、一本化しているようです。一本化しているだけでなく、英雄的な人物が立候補しています。きちんとよく考えていると思います。
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by gskay | 2007-07-26 05:17 | 政治と役所と業界
組織選挙
私の周囲には、組織選挙を毛嫌いしている人が結構います。私自身、最近まで、どちらかというと否定的であったように思います。政治活動などというものは、うさん臭いものだと感じていました。

しかし、耐震偽装に巻き込まれ、政治のことを意識するようになりました。もし、自分の考えを反映させようと考えるのなら、しっかりとした組織が必要です。そのことをやっと理解できるようになったところです。

たしかに、無党派という存在は、選挙の結果に重要な存在です。無党派が多いために、選挙は、開票してみないと結果がわからないのかもしれません。また、無関心・無投票という存在も、決して無視できないと思います。無関心・無投票が、いつまでも無関心・無投票のままなのかわからないため、決して政治活動の中で無視してよい存在ではないと思います。

無党派や無関心・無投票は、メディアが伝える内容に反応している点など、政治意識が低いとは言えないと思いますが、政治に対する積極的な関わりとは距離がある存在だと思います。加えて、自分の意志で投票をしているようにみえて、実は、メディアなどに左右されやすく、誘導されているのかも知れないと感じています。

その点で、組織を背景にした政治活動や選挙活動は、無党派や無関心・無投票とは一線が画せると思います。無党派や無関心・無投票層の動向が、選挙結果を大きく左右するという要素とは別に、組織を固める政治活動・選挙活動は重要です。

とりわけ、参議院選挙では、様々な意味で個人個人の候補を支える組織の力が重要です。二大政党からの選択になりやすい小選挙区中心の衆議院選挙とは大きく異なっています。

衆議院は、無所属で当選する人もいますが、政党、特に二大政党の力が重要です。基本的な選挙戦は、二大政党の競争です。政権選択の選挙となる所以です。これに、比例代表が付加されている形になっていますが、これも、参議院よりも政党が前面に出やすい仕組みになっています。そして、小選挙区でも比例区でも、衆議院では無党派がどの政党を支持するかで、当落の大勢が決まってしまいます。

そうした衆議院に対し、参議院は、比例代表といえども、個人得票が当選の鍵になります。

参議院の比例区では、120万票あたり1議席になるようです。政党別の当選者数が決まった後は、政党内の個人得票の順位で当選が決まります。政党別の当選者数には、無党派の動向や、特定の個人候補を支持していない政党支持者の投票が大きな比重をしめます。しかし、最終的な個人個人の当選には、個人の得票が必要です。個人の得票のためには、政党への投票を増やすための活動とは異なる活動が必要になります。

候補個人にとっては、実は、同じ政党内の候補が最大のライバルになります。たとえ、所属する政党が支持されていても、自分の得票が少なければ当選は困難です。比例の候補は、政党としての得票のための運動とは別に、自らの得票のための選挙運動をしなくてはいけません。結局は、個人を支持してくれる組織を固め着実に得票した候補が当選します。

ところで、比例区に限らず、地方区でも、120万票以上がとれるなら、参議院では1議席をとれるようです。

そう言う点で、もし、個人で120万票とれるのなら、支持者の分布をみて有利な方で立候補すればいいということになります。全国に支持者が散らばっているなら、実質的に一人の候補のための政党によって比例区で当選を目指してもいいと思います。また、地方で確実に得票できるなら、その地方から無所属で出馬することも可能な仕組みになっていると思います。

ただ、通常は、地方区でたとえ120万票を取って当選したとしても、政党の地方組織の支援があるため、候補個人の組織がどれだけの力があるかは、はっきりとはしないように思われます。個人の力だけで、120万票をとって当選している訳では必ずしもないと思います。

120万票というハードルを越えるのは容易ではありません。いじわるばあさんや木枯らし紋次郎をしても、そのハードルを越えるのは難しかったようです。現在の制度では、個人への人気や支持だけで120万を得票して議席を得るというのは現実的ではないのかもしれません。

かつての全国区のような仕組みも、選挙方法の一つだとは思います。ただ、得票の偏りがあるため、大きな支持を集めたトップ当選と最下位当選では大きな開きが出てしまうのが難点でした。票が偏るため、支持の大きさが議員の数に反映されにくいという状況が生まれがちでした。政党ベースでみたとき、議会で優位になるためには、上位で当選する少数の議員を擁するより、下位で当選する議員を多数擁した方が有利になってしまうという問題がありました。加えて、選挙運動の負担が大きく、政治活動が反映するというより、知名度の闘いになってしまい、タレント候補が有利でした。

その点、比例代表であれば、個人得票は副次的な方法になっているため、偏りが補正されています。また、候補個人にとっては、地道な政治活動による組織固めが当選への見通しにつながりやすくなっています。

疑問に感じる点もあります。個人得票については、政党毎に当選ラインが異なります。候補自身の得票以外の要素が大きく関わってしまい、単純に個人の支持の大きさだけで当選できるとは言えない点は、問題といえば問題かもしれません。

政党名での投票が多ければ、個人の得票は少なくても当選の見込みが高くなります。逆に、政党名の投票が少ないなら、個人の得票が多くないと当選は難しくなります。当選に届くほどの大量得票はできないが、そこそこの個人票の集票能力の候補を投入することも、政党としての集票には有効です。この場合も、個人候補が当選に必要な個人得票ラインは下がります。

それを公平かといえば疑問もありますが、そういう制度の闘いであるという前提で、候補も有権者も選挙に臨まなくてはいけないと思います。参議院選挙は、単純に政党への支持を競うだけの選挙ではありません。特に比例区では、政党毎の当選者数とは別に、衆議院以上に候補の個人の政治活動が問われる選挙になっている点をもっと強調すべきだと思います。

与党の幹部が、政権交替に関連づけるべきではないと発言していることには理があると思います。参議院選挙自体、政権選択の選挙とはなりがたい性質を持っていることを今一度確認する必要があると思います。

参議院の選挙結果が、衆議院の動向や政権のあり方にどのような影響を与えるかは別の問題として存在してはいますが……。

私は、候補個人が政治組織を作って活動を行い、その支持の大きさを背景に議員に選ばれるというのは、民主主義の基本にそったものだと思っています。政治活動というのは、得体の知れないもののように見えることもありますが、とても重要な位置を占めていると思います。

そうした組織を作るというのは並大抵のことではないようです。組織をつくるのがどれだけ大変かということを教えてくれるブログがあります。軽妙で読みやすい文章です。選挙中で更新を止めているようですが、しっかりと取り組んでいる姿勢を感じます。特別な背景がある候補でも、それが直ちに政治活動や得票には結びつかないところに苦労しているようですが、それが素直に告白されているように思います。他にも同様のサイトやブログがあるのかもしれませんが、私が知る範囲では、そのブログが組織づくりの活動を最も積極的に取り上げているのではないかと思いました。

華やかとはいいがたい地道な活動です。政権交替というイベント性の高い出来事を中心にとらえているマスコミには注目されにくい活動だと思いますが、政治の最も重要な部分ではないかと思います。
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by gskay | 2007-07-25 21:13 | 政治と役所と業界
失言問題
「言葉狩り」なのかもしれません。

過剰反応と思われる風潮があります。そして、寛容でないと思います。

最大限の配慮で、失言をしない工夫は必要です。しかし、失言が出てしまうことともあります。その場合は、不適切な点を注意したり、たしなめたりすれば済むことです。また、失言をしてしまった人は、その失言が抱える問題を理解したのなら、すぐに謝ればいいのではないかと思います。

ただ、それでは済まされない風潮です。この風潮が、これ以上エスカレートして欲しくないと思っています。

ところで、その言葉の元々の意味をたどると、つべこべ言うほどのものでなかったとしても、一旦、失言が問題になると、なかなか収拾がつかなくなってしまうようです。問題視する側の意識の方が、国語の先生たちを苦笑させるような話も随分とあるようです。

また、前後の脈絡や、発言が出た状況が無視されて、些細なことや戯れ言が大きな問題になっているような気がします。発言者の本意を離れ、強引な曲解がまかり通っているように思えます。

さらに、とても大事な問題が絡んでいるにもかかわらず、肝心な問題についての主張に十分に耳を傾けず、全体の展開を追うこともなく、ほんの一部を問題視しているだけではないかと思われることもあります。

そんな問題だらけの風潮だといっても、とにかく、一旦、失言問題に巻き込まれたら、アウト。大抵は、些細な一言ですが、仮に、その言葉の用い方が、含蓄があったり、機知に富んでいたり、優雅なものであったとしても、それを知ってか知らずか、問題視する人は、引き下がることはなく、執拗に食い下がます。(飽きるまで)

その結果、肝心な議論が先に進まなくなってしまいます。全体の流れを考えたとき、足踏みをすべきでない状況で足踏みをせざるを得なくなってしまうことも多々あるように思います。

時には、陥れるための策略として、失言探しをしているのかもしれないと思うことがあります。だとしたら、納得できることもあります。ただ、それが策略として成り立つためには、過剰反応と不寛容さが背景になくてはなりません。もし、失言問題が、厳重な注意など、きちんとした対処で収拾されてしまうような風潮であったら、この策は成り立ちません。

そんな策略ばかりしていると、過剰反応や不寛容さがエスカレートしてコントロール不能になってしまうのではないかと恐れます。

さて、政治家については、議論や交渉をするのが仕事なので、言葉はとても大切にしなくてはならないはずです。また、説得したり主張したりする時も言葉の力を操っているはずです。些細な失言に対しても、聞く側が寛容でない以上、さしあたっては、上手に言葉を制御して、失言問題を避けなければいけないと思います。でないと、せっかく、世の中をよくしようとして発言している主張に耳を傾けてもらえなくなってしまいます。

同時に、政治家は、政治的な闘いの中にいるので、充分な配慮をしないと、策にはまってしまいます。ターゲットになった時点で、もう遅いのかもしれませんが……。

一方、重大な問題の当事者も、失言問題には充分な配慮が必要です。失言をした側は余計な負担を背負わなくてはいけなくなってしまうばかりか、問題の焦点がぼけ、その後の展開をねじ曲げてしまうこともあります。

たとえば、ヒューザーの小嶋社長の国会の参考人質疑での暴言。異様ではあるものの、全体の流れから見れば小さいものだったのではないかと思います。中継を見ていて、参考人質疑の中にはもっと重大な内容が含まれているように思いました。しかし、その後、繰り返しメディアに取り上げられたのはあの発言で、肝心な問題の方ではありませんでした。そして、ヒューザーの破局。

事件後や事故後の組織の危機管理では、こうした失言対策はとても重要ではないかと思います。その後の事件や事故でも、決して上手ではない対応がみられます。

似た風潮として、

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 「目標女性撃沈」海自合コンで作戦用語 内部から批判も


7月8日10時28分配信 産経新聞

 ■幹部、業界紙に投稿

 初の女性大臣、小池百合子防衛相を迎えた防衛省で、海上自衛隊潜水艦乗組員らが部外の独身女性を招いて行ったパーティーの様子を、幹部が業界紙に投書、そこで女性を「敵」や「目標」にたとえて「攻撃」し、成果を「撃沈」などと表現、海自などから「女性蔑視(べっし)ではないか」と内部批判が出ていることが7日、分かった。

 防衛省・自衛隊関係者を主な読者層とする「朝雲新聞」と海上自衛隊を専門に扱う「海上自衛新聞」に相次いで掲載された、潜水艦の副長を務める幹部自衛官(3佐)が書いた投書は、「果敢に攻撃、カップルが10組誕生」との見出しで、5月下旬に関西で開かれた潜水艦の独身乗組員と一般独身女性との「カップリング・パーティー」の様子が潜水艦の作戦用語を使って記されている。

 主な内容は、「(乗組員の)精鋭は“敵”との接触前に綿密な情報収集と積極果敢な攻撃を方針に掲げ」「前回の“海戦”の戦況を鑑み、対抗部隊、作戦に配慮」「最初の対抗部隊が芳香を漂わせながらエリア内に進入」と“戦闘前”の様子を説明。

 さらに、「いよいよ戦闘開始」「すぐさま接敵、攻撃態勢に入る」「壮絶な海戦の結果」「撃沈、誤射、自沈との各部隊の攻撃成果が確認」と戦闘状況を生中継タッチで描写。「撃沈成功は◯組」と、カップル成立の有無などの戦闘成果についての報告とみられる表現が延々と続いている。

 海自は一連の情報漏洩(ろうえい)や、隊員の無許可渡航などで外国人女性を含むいわゆる「お見合いパーティー」への厳しい目が向けられている。それだけに、この新聞の投書を読んだ複数の海自幹部は「女性に対し失礼でありセクハラだ。常識を疑う」と、書いた幹部や掲載した新聞を批判している。

 さらに「この時期にこうしたことを自慢げに書く幹部、それを許す組織だから脇が甘いと言われるのだ」(防衛省幹部)と自衛官としての基本姿勢を問う声も強く上がっている。中には「小池防衛相が知ったらどうなるか…」と戦々恐々としている声も上がっている。

掲載されたのは、一般的な新聞や雑誌ではないと想像します。投稿への批判については、納得できる部分もあるものの、この記事を読んで違和感を感じました。

専門的な言葉を比喩的に使って表現するという手法自体は昔ながらのユーモアです。きっと、良く出来た面白い文章だったのだろうと思います。それに対し、余程のことがない限り、目くじらをたてたりするものではないと思います。目くじらをたててしまうという不寛容な「基本姿勢」も問題ではないかと思います。

全くの杞憂かもしれませんが、こんな記事がでるのは、自衛隊を特別視し、完璧で神聖な組織であるべきだという考えが根底にあるのかもしれないと思いました。防衛上の不祥事については、大問題です。しかし、自衛官の人間性を否定することにつなげてはいけないと思います。

ただの公務員と変わらないような意識になったり、サラリーマン化してしまっていけないということでしょうか?普通の人の感性は、否定されるべきなのでしょうか?

自衛官を、果たすべき職務を離れたところまで、特別な枠にはめ込もうとしているような気がします。

言論が言論を圧迫しかねない不毛な言葉狩りに加え、過去の悪夢を見ているのではないかと思われるような風潮もあるような気がします。引用の記事は、自衛隊という特別な場所にスポットをあてていたために、気にかけることができたのかと思っています。むしろ、気付かないところで進んでいることが恐ろしいと思います。
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by gskay | 2007-07-24 12:37 | メディアの狂騒
パッチワーク
ニューヨークの道路は、地下に様々なものが埋まっているため、掘っては埋め、埋めては掘るの繰り返しだそうです。加えて、老朽化。スチームパイプの爆発のような大きな事故はまれだということですが、マイナーなトラブルは絶えないようです。いつも、あっちこっちで工事をしています。これが渋滞を引き起こします。加えて、埋め戻しがおおらかに行われているようで、凸凹です。

「ニューヨークはパッチワーク」と言った場合、人種が様々という意味で使われることもありますが、この悲惨な路面の状況をさして、「ニューヨークはパッチワーク」というのだそうです。

このパッチワークは、特に、自転車の敵です。自転車だけでなく、車いすなどにとっても、とても好ましい道路とは思えません。

ちなみに、自転車は、出前の配達の人か、スポーツで乗る人(自転車通勤をしている少しユニークな人たちを含む)がいるだけのように思います。エコで健康的だといわれている自転車が、ちっともポピュラーになれない理由は、道路が混雑していて危険(なのに、縦列駐車の列まである)という事情に加え、ロードのはずなのにオフロードのような凸凹した路面にあると思います。

また、ニューヨークは大都市なのに、小型車をほとんど見かけません。ガソリン価格の高騰が続き、みんながブツブツ言っている割には、小型車に乗り換えるという気配は全くありません。

どうやら道路事情に問題がありそうです。あまりに路面の状況が悪く、小型車が快適に走行できるような状況ではありません。

「アメリカ人は大きい自動車が好きだから……」という話があります。しかし、どうしてアメリカ人が大きい車が好きかという説明はあまりないように思います。

体が大きいから?

2分の1から3分の1が「肥満」とされる国だけあって、確かに大きい。しかし、アメリカ系の航空会社のシートの狭さを考えると、体が大きいというニーズが自動車を大きくしている理由とは思えません。

むしろ、この劣悪な路面に耐えるために自動車が大きくならざるを得なかったのではないかと思っています。各自が自力で、道路の凸凹問題に対処しているわけです。

その一方で、道路の凸凹の方を何とかしようとは思わないようです。

例えば、配管を共同化したり、メンテナンス方法を見直すことで、工事の影響を最小限にしつつ、路面の凸凹ができないようにできるはずですが、そうしようという発想は乏しいようです。せめて、工事の際に、きれいな路面になるように舗装をして欲しいものですが、みんなが大きな車に乗っているので、そのような努力も盛んではありません。

環境問題に後ろ向きなアメリカは、「自己責任」の本場だとされていますが、この二つは密接な関係があり、表裏の関係ではないかと思います。あまりに劣悪なインフラに対し、各自が対処しなくてはいけません。その結果、排ガスによる環境問題のような問題が悪化するとわかっていても、個人個人はそれを止めようと考えることはできないようになってしまっているのです。

公的に整備すべき事業が不十分な部分を、個人が補う社会になっています。もし、環境問題のような問題が生じないのであれば、こういう社会のあり方も許されるとは思います。しかし、環境問題のような重大な問題を引き起こしているということを考えると、この社会のあり方は肯定できないように思います。
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by gskay | 2007-07-22 12:36 | いろいろ
インフラの安全性
地震による原発の損傷について、東京電力や公的機関の対応が批判されているようです。まず、安全に設計されていたかどうか。ついで、事後の対応が適切であったか。それに加えて、メディアに露出することになる上層部の態度。

安全については、今後、徹底的に検証する必要があると思います。想定以上の地震であったが、操業停止などはスムーズで、「想定以上」という想定の想定通りだった可能性があります。

漏れ出した放射性物質については、原子力発電所の本来的な構造というより、付属的な構造の部分からのものである可能性もあり、仮に本体が完璧だったとしても、そちらに目が行き届いていなかった可能性があります。幸い、影響が無視できる程度であるようですが、盲点があったのではないかと想像します。

衝撃的な映像として流れている火災については、これが、原子力発電所に特有な構造なのか、それとも発電所であれば存在する構造なのかによって、評価が分かれると思います。火災への対応状況も問題視されていますが、これは、しっかりと反省しておくべき問題です。

事後の対応では、特に、状況の把握や公表、公的機関への報告などが批判されているようです。これについては、その時点での暫定的な情報把握にすぎず、その後、悪い情報が増えるのは当然のことのように思われます。情報の仕事をしている割には、マスコミはそのあたりのことを配慮できないようです。

情報を公開する担当者は、当然それを配慮するべきです。もしかしたら、その配慮が不十分だったのかもしれません。これは、東京電力からの発表についても、公的機関からの発表についても、何ら差がないことだと思います。

しかし、マスコミもマスコミ。公表された内容を垂れ流しにしておいて、その後の情報の修正について、情報を公開した側の責任を問うのは、おかしいことだと思います。なぜなら、マスコミ自身も、その情報が暫定的で、その時点で把握されている情報にすぎず、その後の情報の収集によって増えるという当然のことを前提に報道すべきだからです。

そうした前提がおざなりにされているばかりか、センセーショナルに取り上げようとしているのか……。そんな理不尽な取り上げ方ばかりであるため、情報公開に後ろ向きな風土が生まれ、隠蔽にもつながるのではないかと思います。

ところで、公的機関への情報伝達の遅れは、毎度のことですが、訓練などとどのように違ってしまったのか事後に充分検討するべきです。影響が限定的であるものの、しっかりとした対応が必要です。それほどの施設を扱っているのですから。

放射性物質の漏れ出しの程度については、訳のわからないたとえでなく、きちんと数値を出すべきだと思います。放射線作業従事者への研修などでもよく使われるたとえですが、「ラドン温泉が……」というのは、イマイチだと思います。それより、自然界の放射線、ついで医療放射線との比較の方がいいのではないかと思います。

さて、地震への対応の本筋からズレてしまうものの、東京電力の上層部の発言は、困ったものだと思います。昨今の一連の事件や事故は、そうした事態への組織への対応の重要性を教えてくれていたはずです。すなわち、「危機管理」。

現場レベルでは同じことかもしれません。しかし、後方にいる上層部の危機への対応が適切であれば、信用を上げることにつながります。逆に不適切なら、信用は失われます。

漏れ出た放射性物質の影響については、漏れ出させた会社は数値などを出すにとどめ、その評価は第三者や公的機関に委ねるべきでした。なるべく早く安心してもらおうという気持ちからの発言だと思います。その気持ちはわかりますが、迅速に第三者や公的機関が引き継いでくれることを信じ、発表すべき事をだけを発表すべきでした。

また、知事への報告で、「いい経験になった」とか、何とか。それは、知事の方が評すること。その知事がどういう人物か私は知りませんが、不機嫌になって当然だと思います。若造だとなめられたのでしょうか?そもそも、地震の影響は発電所だけではありません。対応に忙殺されている知事を前に何を言っているのでしょう。

東京電力の現場の対応や、これまでの安全対策については、今後、徹底的に究明されるべきだと思います。しかし、上層部の危機管理能力の欠如は、そういう問題とは別に、組織にとって重大なことではないかと思います。

ところで、ニューヨークの中心地で、蒸気のダクトが爆発しました。マンハッタンの街中にダクトが張り巡らされていることは有名ですが、このダクトが老朽化しています。爆発したダクトは、1920年代のものだそうです。

スチームがもくもくと上がり、土砂が噴出する様子は映画のよう。同時多発テロを彷彿させる光景です。

爆発後、すぐに市長が、テロを否定しました。そして、交通機関の代表者や、ダクトを管理する会社の代表者が状況や対応を説明しました。交通への影響や、周囲への電力や水道の提供が問題になりますが、それについての説明でした。加えて、古いダクトであることから、アスベストの被害について注意が発せられました。

何となくスムーズな対応です。これに安心してか、何となくのんびりしていて、道行く人は、足をとめ、携帯で写真をとっています。ちょっと離れた場所の警官は、飲み物を片手に警戒をしています。また、ニュースは、配管に用いられたアスベストによる発ガンへの影響と、混乱による経済被害を心配しています。

街中に同じようなダクトが埋まっているということは、今後、同じような爆発が起きてもおかしくないということだと思うのですが、あまり気にかけていないようでした。結構、「危ない街」だと思わせてくれます。

すでに、約20年前から同様の事故は起こっており、抜本的な対策が必要なはずです。しかし、諸般の事情で不十分であるようです。インフラの安全性と利便性や経済効率との間にてんびんをかけて考えているのかもしれません。日本人の「ゼロリスク」追求社会であったら、許してはおけない程の状況だと思います。

まあ、そうは言っても、日本の「ゼロリスク」追求も、耐震偽装への対応や、古い建物への対応で明らかになったように、不勉強なメディアの狂騒と、それに人々が一時的に煽られているだけで、喉元をすぎると、誤解や偏見などを残して、忘れ去られていくようですが……。
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by gskay | 2007-07-20 04:33 | 安全と安心
現地視察
大臣や党首や議員や候補が、災害の現地を視察します。災害に限らず、苦労している人のところへの視察もあります。そうした視察は、現地の人に元気を与えることができるようです。

問題の解決にどれだけ役に立つのかわかりません。時には、受け入れのために、忙しい手を休めなくてはいけなくなることもあるようです。それでも強行するのは、視察に行く人の人気取りではないと思います。

もし、忙しい人への迷惑行為なら、とっくの昔にそんなパフォーマンスは撲滅されていると思います。人気取りと見透かされるような行為は、逆効果です。

「エラい人」が訪ねてくれるというのは、特別なことです。何をもって「エラい」とするかは別にして、その特別なことが、現地で苦労をしている人を励ます効果があるようです。

このタイミングで出かけるのは、迷惑かもしれないと配慮する見識も大切だと思いますが、こうしたことに対し、衝動に突き動かされて視察に赴くようでないと、エラい人は務まらないのではないかと思います。政治に携わるには、そういう側面も大切にしなくてはならないと思います。

こうした衝動は、「政治」、「まつりごと」の大事な要素だと思います。

人が集まり、誰かを担ぐ。担がれた人の行動は、逆にみんなに影響します。視察という言葉はともかく、政治家として担がれた人、あるいはエラい人が訪ねて来るということの意味を、軽視してはいけないように思います。

二世議員批判があります。だめな政治家も少なくないと思います。しかし、二世として育った環境は、理性や理屈をこえた政治のあり方を学ぶには絶好の環境でもあります。視察のような状況に、抵抗なく的確に立ちあがることができるような環境で育ってきたのではないかと思います。そうしたことを身につけて政治に携わるというのなら、格好の人物かもしれません。

逆に二世議員でない政治家には、そうしたチャンスが限られています。余計な垢にまみれていない分、肝心なところが抜けていたりするのかもしれません。二世でない場合、理屈をこえた部分に弱いのではないかと思うことがあります。政治家という立場が、身に付いておらず、演じているだけではないかと思うことも。みんながそうとは言えませんが……。

地盤とか看板とか、あるいは資金力、知名度という選挙の上での有利な点を除いても、政治家にふさわしい人が二世には少なくないように思います。そのように育てられただけのことはあると思う事がしばしばです。

私は、世襲が維持できるだけの努力をしている政治家を、二世だからといって否定しません。もちろん、二世でない人が、二世より優れていると思ったら、そちらを選びますが。

二世かどうかはともかく、視察のような行為に、真剣に取り組むことができるかどうかは、政治家を選ぶ基準の一つになると思います。

「百聞は一見にしかず」。エラい人にとっても、現地入りは大切だと思います。特に、メディアの情報もあてにならないし、現地からの情報は寸断されていたり、寸断されていないとしても、肝心な情報がなかったり……。

しかし、政治家にとっての現地入りは、学者やリポーター、あるいは救援チームの現地入りとは異なる意味を持っています。エラい人としての価値があり、現地の人にあたえる影響がとても大きいと思います。

まあ、現地の人にとっては、政治家個人の人格とか品性などは問題ではなく、政治家という肩書きやその地位、すなわちエラい人という点が、理性を超えた力を与えるのだと思います。これはこれで、勘違いしてはいけないポイントだと思います。加えて、政治家に限った話でもないと思います。

(屁理屈をこねてばかりの私は、耐震偽装に翻弄されていろいろと考えるようになるまで、こうした理屈をこえた行為から目を逸らしていたように思って、反省しています)
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by gskay | 2007-07-18 02:45 | 政治と役所と業界