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官僚の地位と能力の低下
前防衛事務次官の問題に関連し、興味深い記事を読みました。前防衛事務次官の専横が問題だったというのが一般的な認識だと思います。しかし、深層には、政治家へ実権が移りつつあり、それに従って、官僚の地位と能力が低下していたという事情があるようです。

ただ、政治に対する官僚の地位は低下したものの、関連業界に対する影響力は、そのまま。かえって透明性を失い、官僚の裁量は力を増していたのかもしれません。また、高い地位は、能力によって得られるものではなくなり、いかに政治家にとりたててもらうかということが重要になっていたようです。

Yahoo!みんなの政治 - 政治記事・ニュース - 政治記事読みくらべ - FACTA - 田岡俊次コラム[「軍略」探照灯] 軍事記者が見た「守屋前次官」

(略)

国会の委員会では局長級の官僚が大臣に代わって答弁する政府委員制度が99年から廃止され、官僚が『政府参考人』として答弁に立つことは例外的になったから、官僚はさほど実務に通暁せずとも、あるいは、見識や論理性を若干欠いていてもボロを出さず、局長が務まるという皮肉な結果を生じた。かつての局長らは自分が委員会で質問の矢面に立ったから、政策を考えたり、法案を起案する際にも「どこかに隙はないか」「弊害を突かれることはないか」と真剣で、夜まで部下を集めて討論していた。

(略)

この記事には、「政治家優位の状況下では官僚の仕事の中で「根回し」のほうが比重を高めることになる。」という指摘や、「商社が役人を接待、という単純な構図ではなく、商社が政治家と役人の仲を取り持ったり、役人が政治家に食い込むため商社に一席設けさせたり、商社に頼んで海外で政治家の世話をさせて点を稼ぐ、といった「三位一体」の癒着構造」という分析も書かれています。

議会主導、内閣主導が強まることが望ましいと私は考えています。引用した部分に描かれているような昔に戻す必然はないと思います。この事件は、官僚の権威が失われる前のドタバタや最後の悪あがきの象徴のように思えます。

唯一残っている官僚の裁量による現場への影響力だけが、官僚の拠り所だったようです。天下国家の先行きを見据えるという使命感は必要なくなり、残された現場への影響力をフルに「活用」することだけに集中しているのだと思います。官僚の裁量による現場への影響力だけが関心事だとすれば、天下りはもとより、無意味で有害な締め付けが行われる理由も納得ができます。

また、裁量による影響力を維持するためには、国会や内閣にいかに邪魔をされないようにするかが、官僚の組織としての目標になっていたのではないかと思います。このため、息が通じた業者との連携プレーがエスカレートしていたのではないかと思います。

腐敗のみならず、混乱の原因となっている官僚の裁量の影響力は、排除されなくてはならないと思います。それさえ無くなれば、弊害を伴うような天下りも業者との癒着も、そして自己目的化して陳腐になった統制も、それらをエスカレートさせてきた動機が失われてしまうと思います。

その上で、官僚の能力を見直す必要があると思います。役割が確立する分、一層の能力の向上が必要です。私は、この能力の養成を、従来のように官庁自身が行うのは無理だと思っています。キャリア制度で、後継者を育てる仕組みは、早々に終了した方がいいと思います。

その分、高等教育機関である大学院に任せるべきだと思います。すでに、数の上では大学院は充実し、修了者、学位取得者も増えています。しかし、その活躍の場は意外に狭いのが実情です。公務員の幹部となるべき人材の確保は、大学院修了者や学位取得者を活用すれば済むことです。

公務員に任用してから教育を行うのではなく、大学院教育を終了している人材から選ぶようにすればいいと思います。大学院修了者を積極的に上級の職員として登用することは、これまでのキャリア制度のしがらみを断つことにもつながると思います。逆に、学部卒業を目安にする仕組みを残しながら、小手先に試験や採用の区分をいじっても、キャリア制度は残るばかりか、能力の向上も期待できないと思います。

裁量による影響力だけが残り、政治的な地位も能力も低下した今の官僚組織が、おそらくもっとも厄介な存在です。官僚の能力のこれ以上の低下を食い止めなくてはいけません。政治的な地位も低下し、いよいよ裁量による影響力も失われることになったとしても、本来の役割が明確になるだけで、能力が不要になるわけではありません。
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by gskay | 2007-11-29 13:08 | 政治と役所と業界
参議院不要論批判
自民党の耐震偽装問題対策検討ワーキングチームの座長の早川忠孝衆議院議員には真摯に対応してもらったと感じており、感謝しています。

耐震偽装の追及は、あらぬ方向に方向がずれてしまい、対応が迷走してしまいました。民主党にも耐震偽装で活躍された議員がいることは承知しています。その議員や、党としての取り組みには評価できるところも少なくなく感謝しています。しかし、全体としては、注目や期待の割に、ダメだったと思います。インターネット上のサイトの閉鎖など、今でも根本的な問題は解決していないのに、早々に切り上げられてしまったことは残念でした。

それに対して、自民党は地味でした。現実の問題に、コツコツと対応していたように思います。きちんとした調査も行われていました。それが、政治に反映されたかどうかや、対応として実現したかという点では、不満があります。しかし、私が抱く印象は大きく変わりました。(というより、あまり関心がなかったというべきか……?)

ところで、早川議員は、ブログ(早川忠孝の一念発起・日々新たなり)を書いています。耐震偽装で縁がなければ、名前さえ知らない議員だったと思いますが、今は関心を持っています。早川議員は、自治省での官僚経験をもつ弁護士という経歴のようです。

そのブログで、参議院の存在がやはり問われる/参議院議員はこの際、全員党籍を返上しては如何か|早川忠孝の一念発起・日々新たなり というエントリが気になりました。

私も、防衛関係の問題や、それから始まる混乱を残念に思っています。特に、参議院でのこの問題の取り上げられ方に疑問を感じています。野党が第一党なのだから、防衛に関わる調達の仕組みに、遠慮なく大胆なメスが入れられることを期待していました。しかし、元事務次官の証言に端を発した財務大臣のアリバイの問題ばかりが注目されてしまっているように思います。

防衛のあり方や、調達の問題について充分な調査を行い、議論をつくすことこそ、本来の国会のあり方ではないかと思います。捜査や裁判のまねごとや、つるし上げのような話ばかりではいけません。実際は,本来の議論も行われているのかも知れませんが、そんなことばかりが取り上げられています。そういう姿勢のマスメディアも問題だと思います。

野党が参議院における第一党という状況にあって、こうした参議院の有様は、期待を裏切っていると思います。早川議員もそうしたことを憂慮しているのだと思います。

ただ、ブログで記されている早川議員の参議院に対する考え方については、少し疑問に思いました。衆議院が中選挙区であった時代の参議院と、衆議院が小選挙区中心になった後の参議院は、別の機能を果たしていると思います。早川議員の披露した考えは、衆議院が中選挙区であった時代のものだと思います。

小選挙区中心になって衆議院は二大勢力の対決の場となっています。衆議院には優越があって、衆議院で過半数を占めた勢力が政権を担当し、内閣と密接に連携しつつ、行政に強い影響力を持つことが期待されていると思います。

これに対し、参議院では、比例代表が中心になっています。二大勢力以外で、衆議院では議席がとりにくい少規模政党でも議席が確保できる仕組みです。少数意見が尊重されやすく、衆議院では影響力が小さい政党や勢力でも、参議院では活躍できます。

法律に関しては、両院での可決が原則的に必要です。衆議院が優越する行政に関わる事項は、現在や近い未来の問題を扱っています。これに対し、法律は未来の設計図になり、未来を拘束するものです。そうような意義をもつ法律の決定にあたり、少数意見が反映されやすいように配慮した国会の仕組みは良い制度だと思います。

早川議員が非難する党籍の問題は、参議院が二大政党の対決の場と化し、ミニ衆議院になってしまっていることが問題の本質です。政党の存在を前提としつつ、選挙制度が異なる二院による議会制民主政治の真の意義を取り戻さなくてはなりません。少なくとも、今の参議院の状況は、望ましいものではありません。

ただ、参議院議員の党籍返上や参議院不要論とは関係がないように思うのですが……。

早川議員は自治省での経験もあり、おそらく選挙制度については熟知していることと思います。その上で、世間の多くの人が感じている不満や怒りを、政治家として率直に代弁してみせたのだろうと思います。私だったら、制度に対する多くの人がもつ誤解を指摘し、簡単に否定してしまうところですが、そういうことへの配慮が政治家には必要なのかもしれないと思いました。

私も、早川議員と同じように、参議院に良識を期待します。それは、行政にただちに反映されるような「多数決」の場である衆議院に対し、比例代表によって少数政党を巻き込んだ「調整」が行われる場としての参議院への期待です。

しばしば、参議院を「良識の府」といいますが、良識のある人物が議員になるべきなのは、衆議院も参議院も同じではないでしょうか?

衆議院が中選挙区であった時代に作られた先入観は、なかなか克服できないものだと感じています。これは、一般の国民の国会の制度や選挙制度に対する関心の低さもあると思いますが、仕組みの変化に配慮せずに報道を続けるメディアの姿勢にも問題があると思います。また、マスメディアを意識しすぎた一部の政治家の姿勢が問題だと思います。

そういう意味で、この早川議員をはじめ、派手とはいえない政治家にもっと注目しないといけないように思います。参議院で、防衛や防衛に関わる調達についての本質的な追及をした議員の主張にも耳を傾けるべきだと思います。

ネットのおかげで、マスメディアではあまり注目されない政治家の活動も、決して遠くにあるわけではないと感じています。
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by gskay | 2007-11-28 14:54 | 政治と役所と業界
ひとくくり
「偽装企業」ということで、ひとくくりにしていいのか疑問です。世間の風潮をなぞるだけの安易な分析による記事だと思います。

復活、破綻…「偽装企業」それぞれの明暗(産経新聞) - Yahoo!ニュース

11月25日22時28分配信 産経新聞

 「偽装」が相次いで発覚する中、問題となった企業の“発覚後”で明暗が分かれている。「白い恋人」の石屋製菓などがV字回復の兆しをみせる一方で、再建を果たせず破産の道をたどる会社や、赤福、船場吉兆のように製造・営業再開のめどすら立たないところもある。それら企業の大半は、隠蔽(いんぺい)の温床となりやすい同族やワンマン経営で、発覚後の責任転嫁の姿勢が問題の根を深くしているケースが少なくない。真摯(しんし)な反省と、閉鎖的な体質からの脱却が鍵を握っているようだ。

■回復組

 「二度と消費者を裏切らない」。石屋製菓の土産菓子「白い恋人」の製造が再開した今月15日、島田俊平社長は目に涙を浮かべ決意を語った。

 同社は賞味期限改竄(かいざん)が発覚してわずか10日後に創業家一族が取締役から退任し、北洋銀行の常務だった島田社長を招聘(しょうへい)。約10億円を投じ、賞味期限の表示を箱への印字から個別包装に改めた。一気に“膿を出し切る”真摯な姿勢は信頼回復につながり、22日の販売再開初日に店頭に並んだ約8万5000箱は、ほぼ売り切れた。

 平成12年6月、戦後最大級の約1万3000人の食中毒被害を出した雪印乳業。元工場長ら2人が有罪判決を受け、法人としての雪印乳業も罰金刑を受けた。

 主力の乳飲料部門の売却など解体に近い出直しを迫られたことを受け、消費者団体から社外取締役を招き、倫理委員会を設置するなどの“血の入れ替え”を断行。今年3月期決算で7年ぶりの配当が決まった。

■転落

 「うちも悪いが喜んで買う消費者も悪い」「みんな本当は同じことをやっている」。食肉偽装を20年以上前から行っていたミートホープの田中稔元社長は今年6月、こう言い放った。発言は強い批判を招き、田中元社長ら4人が逮捕される刑事事件にも発展した。

 売れ残った赤福餅(もち)を再利用していた赤福は、発覚当初の会見で「売れ残りは焼却していた」と釈明。それが6日後に一転して偽装を認めた。それでも「現場主導だった」という主張は変えず、不正開始当時の社長が会見したのは発覚の約20日後。真相の小出し、偽装の上乗せは不信感を強め、その後も営業禁止処分は解けず、製造再開のめどは立っていない。

 今年1月、消費期限切れ牛乳を使用したシュークリームの製造が発覚した不二家も、約2カ月前に事実を把握しながら「雪印の二の舞になる」と隠蔽したことが消費者の心象を悪くした。ダメージは根深く、9月期の中間連結決算では営業損益が71億円の赤字となった。

■真摯な姿勢

 17年11月に発覚した姉歯秀次元建築士による耐震偽装事件ははっきり明暗を分けた。

 解体が決まったマンションについて、居住者からの買い取りに消極的だった開発会社ヒューザーは、破産と社長の逮捕に追い込まれた。一方、不動産会社シノケンは、事件への関与はなかったが、「責任を感じている」として、約2カ月間で補償などに約30億円を投入。当初は赤字に転落したが、その後はホテル事業に乗り出すまで業績が回復している。

 山崎昌子・日本消費者連盟関西グループ世話人は「偽装が発覚した企業が再生するには、真摯な自覚が重要。従業員に責任を押しつけたり責任感のない会見をしたりすればすぐに分かり、消費者の不信に拍車をかける。率直な謝罪と、身の丈にあった営業規模が大切」と話している。

引用の記事の前半は、食品関係の事件を取り上げています。表示の偽装と、材料の取り扱いの問題がありますが、扱いがゴチャゴチャです。あまり感心できる記事ではないと思います。

表示の問題の場合、材料や生産・製造方法を偽った場合と、日付を付け替えた場合があります。材料や生産・製造方法の偽りについての問答は不要かと思われます。しかし、日付については、安全性や品質の確保を目的としているので、きちんと、メーカーが保障できるのであれば、事情によっては許されるものも含まれているような気がします。

消費期限や賞味期限については、製品の品質の変化や劣化をきちんと検討した上での判断であれば、付け替えも妥当としてもよいケースが含まれているように思います。また、製造日をいつとみなすかということも、入れ替えたり、包装をかえたりした日を製造日だと言い張ることもできるわけで、単純ではないだろうと思います。

一般的には、字面から受けるイメージだけで、消費者は判断します。そういう意味では、期限や日付の定義が、曖昧だったり、紛らわしいことが問題を複雑にしています。これを期に、新たな表示方法を検討するというのも良い方法かもしれませんが、ますます複雑になるだけならやめて欲しいと願います。

また、農林水産省の立場と、厚生労働省の立場も異なり、ここに経済産業省まで加わったりすることも、複雑さの原因なので、国としてきちんとした方針を出し、取り締まりの仕組みも確立しなくてはいけません。

一方、材料の取り扱いの問題は、食品加工業者としての高度で技術的な問題です。材料の品質管理は、消費者にむけて表示される期限を守ることと同一視することはできません。業者は、技術力によって製品の品質を確保しなくてはいけません。引用の記事にある雪印の食中毒は、品質管理に失敗したケースです。技術力の問題であったと思います。

しかし、不二家については、問題の扱いが適切であったのかどうか、私は疑問に思っています。きちんと品質は管理されていて、安全は確保されていたのではないかと思います。ただし、事件発覚後の対応は別です。危機管理の点で失敗です。たとえ、問題がなかったとしても、騒動に巻き込まれた場合には、それをうまく切り抜けなくてはいけません。

さて、耐震偽装。

引用の記事では、「不動産会社シノケンは、事件への関与はなかったが……」という表現が、ヒューザーの関与があったかのように取られかねない表現だと思いますが、そういう意図はないのかもしれません。

ヒューザーとシノケンには、業務内容から大きな違いがありました。ヒューザーは所有者が居住することが前提の分譲マンションの会社でした。しかし、シノケンは、賃貸目的の投資用分譲マンションの会社でした。問題の処理のされ方が全く異なっていました。

シノケンの場合、マンション住民は賃貸で入居しているため、適当な補償によって退去を促すことが簡単でした。マンションオーナーへの補償の問題についても、居住する所有者への補償の問題とは意味合いが異なっていました。そうした事情を抜きにして、所有者が居住することを前提としたマンションを販売していたヒューザーの対応と比較するのは適当ではないと思います。

あたかも、問題を整理するかのような姿勢で書かれているように見える記事ですが、あまり感心できない出来映えだと思います。
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by gskay | 2007-11-27 14:01 | メディアの狂騒
『DAVE』
昔観た映画です。久しぶりに観ました。内容は忘れていたので、はじめてのようなものです。この映画は、大統領と瓜二つの容姿をかわれて大統領の替え玉となった主人公が、脳卒中で倒れてしまった本物の大統領の代わりを務めるという設定の喜劇で、政治を風刺したコメディーです。

チャップリンの『独裁者』などと似ている部分もあり、「入れ替わり」という昔ながらのオーソドックスな設定です。また、アメリカの民主政治の理想のようなものを描いている点は、『スミス都へ行く』とも似ていると感じました。

ところで、『独裁者』でも、『スミス都へ行く』でも、演説シーンがクライマックスという舞台設定が共通しています。ただ、『スミス都へ行く』では、演説は内容よりも、苦悩のすえのフィリバスターによる不正告発のための抵抗でした。フィリバスターは、民主的な議会内の戦術として肯定されていて、それが世論をかえていく様子を描いています。これに対し、『独裁者』では、チャップリンの理想が語られる場面となっています。観る人は、そのメッセージの中身に耳を傾けることになります。

『DAVE』でも、演説シーンがクライマックスです。選挙で選ばれた本物よりも、偽物である替え玉が善政を行い、それが高く評価されるものの、本物が犯したスキャンダルで窮地に追い込まれてしまい、クライマックスである議会での辞任演説へ。ここで、この映画の主題が明らかにされます。

「大統領というのは、国民に一時的に雇われただけだという立場を忘れていた」

大統領への尊敬は、無条件であり熱烈です。権威は絶大です。このため、本来のあり方が見失われしまうことがあるのかもしれません。これは、選ぶ側も、選ばれる側も。

その危険性を、この映画が指摘しているように思います。さらに、良い大統領を選ぶ仕組みとして、本当に大衆の支持を反映するような選挙で良かったのかどうかを考えさせられます。

そして、何より、なぜ、偽物の方が、本物よりも善政が行えたのか?

ここは、勘違いしてはいけないポイントで、たまたま善政を行うことができる人材が替え玉になっただけのことだと思います。たいていは、ダメなのだと思います。選挙での選出が悪いとは、この映画は主張していません。

明示とはいえないものの、主人公が、政治を志して選挙に出るという最後のシーンによって、政治を志すべき人が、政治を志し、選挙に挑戦することによって、アメリカの民主政治の理想を保つことができるということを示しているように思います。

『独裁者』も『スミス都へ行く』も名作ですが、『DAVE』はさらによく出来た映画かもしれないと感じました。ただ、そこまで考えて観ている人がいるかどうかが微妙です。その点で、『独裁者』の直接的なメッセージや、『スミス都へ行く』が与えるインパクトにかなわないのかもしれません。

蛇足になりますが、『DAVE』の演説シーンには、「一旦、スキャンダルが問題になると、それ以外の議論はできなくなるものだ。だからこそ、スキャンダルについて話しあわなくてはいけない」という一節がありました。政治の理想とは別のレベルの真実だと思います。スキャンダルに上手に対処することは、政治をすすめるために必須のことだと思います。

また、前後する時期に、『アメリカンプレジデント』という映画も作られています。こちらも、演説がクライマックスですが、少し様子が異なります。演説の中身は、今日にもつながる具体的な政治問題です。しかし、これは、ストーリーの中では、決して主題でも、主張したい内容でもありません。

テレビドラマの『ホワイトハウス』の原点になったとされる映画ということで、『アメリカンプレジデント』の方が、「大統領もの」映画ではポピュラーですが、シンデレラストーリーの舞台にすぎないと思います。『独裁者』や『スミス都へ行く』と比較するべき映画ではなく、むしろ、『プリティーウーマン』の系譜に位置付けるのがふさわしいように思います。

さて、『DAVE』の演説シーンは、アメリカ政治や英語にあまり詳しくない私がみても、昔の大統領の演説のパクリをつぎはぎにしているとわかるくらいです。しかし、それが価値を損ねているというわけではありません。つぎはぎであるがゆえに、かえって、アメリカの民主政治の理想や現実が凝縮されているように思います。

「I had to care more about what's right than I do about what's popular.」
(何が人の気をひくのかということよりも、何が正しいものなのかということに心を配るべきだった……とでも訳したらよいのでしょうか?……これには、オリジナルがあるのでしょうか?)

この演説シーンの最後のメッセージです。このような理想は、確実にそれを実現する仕組みなどないのかもしれないと思いました。ひとりひとりの政治家や、ひとりひとりの国民の自覚と不断の努力だけが、その理念を実現できるような気がします。

政治コメディーですが、かなり重大な主題から展開していることに、今回、はじめて気付きました。
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by gskay | 2007-11-24 03:22 | いろいろ
使用禁止命令解除
横浜の物件は、もっとも先行して使用禁止命令が出た物件のひとつでした。Qu/Qunが0.5以下の建て替え相当ということでしたが、補修で対応。これは、国のスキームとは大幅に異なる方針でした。

建築についての公的な対応の主体は、特定行政庁をおく自治体です。国が何と言おうと実現できるのであれば、それでいいのだと思います。当初は、この物件の対応が、あまりに他と異なるため、足並みが乱れることを恐れました。

しかし、結局、足並みが揃うことなどなく、それぞれの物件は、それぞれの対応になってしまい、どれ一つ国のスキーム通りのものはありません。ただ、国のスキームが最低限のラインを示していたからこそ、それぞれが独自の方針を打ち出すことができたという側面があり、評価すべきところは評価すべきではないかと考えています。

使用禁止命令、初の解除=姉歯事件の耐震偽装マンション−横浜(時事通信) - Yahoo!ニュース


11月22日18時1分配信 時事通信

 横浜市は22日、姉歯秀次元一級建築士による耐震強度偽装が発覚した横浜市鶴見区のマンション「コンアルマーディオ横濱鶴見」の耐震補強工事が完了したことを受け、約2年ぶりに同マンションに対する使用禁止命令を解除した。耐震強度は0.41から、震度7の大地震でも倒壊しないとされる1.1以上に回復した。
 一連の事件では、東京と神奈川の計12物件に使用禁止命令が出されていたが、解除されたのは同マンションが初めて。
 同マンションは10階建てで、18世帯が26日から再入居する予定。今年3月から外壁にコンクリート製の柱や梁(はり)を取り付ける補強工事が行われていた。総工事費は2億7000万円。1世帯当たりの負担額は約1000万円だった。

使用禁止命令の解除という手続きが行われる可能性があるのは、この物件だけかもしれません。他は、建て替えられて新築になってしまうからです。

強いて言うなら、藤沢の物件は高層階を除却することで、建築基準法をみたす建物になっているとのことで、使用禁止命令を解除できる可能性があるのかもしれませんが、そんなことになったら、ますます問題が混乱するのではないかと思います。

藤沢については、ヒューザーが所有する売れ残りの部分があったはずです。その権利を含め、所有権がどのように変換されているのかが気になります。中途半端に残された建物は、もはや違法建築でないだけに、違法を理由に除却することが妥当とは言い難い状況です。

もともと、違法で建て替え相当だから「価値はゼロ」という話が、国のスキームの前提として、少なくともメディアでは流れました。国土交通省の真意はわかりません。少なくとも、これは暴論だったと思います。横浜のケースが、その暴論を覆してくれました。加えて、藤沢のような複雑な事例が出ています。

評価すべきところがあることは認めますが、騒動の初期の国土交通省の対応は、拙速であったといわざるをえないと思います。

民法は、不動産関係のトラブルを想定したような条文がたくさんあります。国土交通省は、技術的な能力に疑問がつくだけでなく、権利のような法の根幹についての配慮も充分でなかったということになると思います。

建築基準法改正の準備不足や景気への影響も加えて考えると、かなり深刻な「病状」を抱えているように思えます。その自覚があるのかどうか心配です。国民も、その深刻な事態を見過ごしてしまっていいとは言えない状況です。
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by gskay | 2007-11-23 10:48 | 公的対応
役所の責任
「事故は2人だけの問題としてとらえることはできない」という点は、この2人の責任を明確にした上で、さらに組織のあり方を問う上での重要な問題意識だと思います。しかし、引用する記事でとりあげられた嘆願書活動は、責任をうやむやにしてしまう可能性もあります。

<プール吸い込み事故>元市課長らに減軽嘆願7千人 埼玉(毎日新聞) - Yahoo!ニュース


11月20日15時2分配信 毎日新聞

 埼玉県ふじみ野市の市営プールの流水プールで昨年7月に女児(当時7歳)が吸水口に吸い込まれた死亡事故で、業務上過失致死罪に問われた元同市教委体育課長、高見輝雄(60)▽元同課管理係長、河原孝史(47)両被告について、「事故は2人だけの問題としてとらえることはできない」として、減軽を嘆願する同市役所職員有志ら約7000人分の署名が集まっていることが分かった。さいたま地裁で20日午後、2被告の初公判があり、公判中に嘆願書とともに同地裁へ提出される。

 事故ではプール管理の請負業者ら4人も一緒に書類送検されたが、「(完全に固定されていなかった)吸水口のふたの修理義務はなかった」などとして起訴猶予となった。

 市などと遺族の間では3月に約6000万円の示談が成立している。嘆願書は「幼い命が失われたことは重大で市と市職員の責任は重大」とする一方で、市職員2人だけが罪に問われたことへの疑問を投げかけ、減軽を求める内容。市の部長と市職員労働組合執行委員長ら計10人が個人として発起人に名を連ねている。署名は8月1日〜9月末、一般職員のほか戸別訪問で市民らから集めたという。【藤川敏久】

民間に委託するにあたり、より責任の所在を明確にする必要があります。

「2人だけの問題としてとらえることはできない」という主張が、この2人の処罰を軽くするためだとしたら、私には感心できません。

もし、他にも責任を負うべき関係者がいるということを明らかにするべきだという主張であれば、歓迎するべきだと思います。

この嘆願書が投げかける「2人だけ」への処分についての疑問は、際限なく拡大して適用すると、最終的には、誰も責任をとらないという体制につながってしまいます。

問題への反省を不十分なまま放置し、責任を曖昧にしてしまうことにつながりません。これは、問題があっても、責任を問われないということです。こうなると、隠蔽さえも必要なくなる無責任体制を容認しかねません。

7000人分の署名は、使い方をあやまると、とんでもないことになります。

2人の人柄や、責任に対する2人の真剣な姿勢など、酌量すべき情状とは、全く次元の異なる問題です。
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by gskay | 2007-11-22 04:22 | 政治と役所と業界
「御役人様」の「絶対」
日本は国民が主権を持つと定められた国ですが、一般的には、そういう意識はしっかりとしたものではないと思います。どちらかというと、多くの日本人は、政府への服従を希望していて、「御役人様」に統治されたがっているように思います。「御役人様」の方も、その気になってしまっているように思います。

公務員に対するイメージや、政府に対するイメージは、上から下への統治のイメージが強く、無条件の無限の権威を持っているかのようです。

公務員に対する風当たりが強かったとしても、許し難い悪徳の役人がいたとしても、施策が失政でも、なんとなく、正しいと位置付けてしまう。あるいは、その風当たりも糾弾も、その権威を傷つけるものだからこそ怒る。

また、なぜか、選挙で選んだ議員よりも正しいと思ってしまう。

あげくのはては、正しくないことでも、「御役人様」のいうことだということで、正しいと思い込むことにしてしまう。

国民は、自ら判断したり、選択するかわりに、「御役人様」への服従を選んでいるように思えます。そして、「御役人様」は「絶対」だと決めつけてきたように思います。

ところで、約束事や決まり事、掟に関しては、「絶対」があって、それを破ることは許されません。しかし、技術的な問題では、現実問題として、「絶対」というものはなく、「限界」があります。

その「限界」の存在を、「絶対」という決めつけに邪魔をされ、「御役人様」も国民も認めることができなくなっています。

本来、「限界」と「絶対」は両立しないものではありません。「限界」を明示することも、「絶対」には含まれます。

「限界」が明示されると、そこから先は、国民自身が考えなくてはいけません。そのような領域を認めることで、国民が目覚めることにつながります。もはや、一方的に統治されるだけの立場ではなくなります。そして、上から下への強力な統治だけでなく、国民から政府への信頼が重要な課題になります。

明らかに、技術的な問題について政府が示す「絶対」が陳腐なものになっています。その陳腐さが、昨今の偽装や隠蔽の根源です。これは、民間で行われていることも、官で行われていることも同じです。

「絶対」が陳腐になっているために、信頼にヒビが入っています。今、この国の政府に必要なのは、技術に対する「絶対」の一層の追求や、締め付けではありません。「限界」の明示です。

これは、耐震偽装しかり、薬害しかり、食品衛生しかり。

あるいは、財政にしても、福祉や年金、医療の将来にしても。そして、防衛や防災、防犯。

「限界」が明らかになればこそ、次の課題も明らかになります。「限界」の範囲内での責任については明確でなくてはなりません。また、その「限界」を克服するための「不断の努力」は、何よりも尊重されなくてはいけません。安心も利便性も満足もそこから向上するのですから。

そこから、曖昧で空虚な権威ではなく、はっきりとした権威が生まれます。

「絶対」などというものを無闇に追求し、それが「御役人様」に備わっといるという幻想にしがみついてきました。そのために、バカバカしい騒動が次々とおこり、出口がなくなっています。
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by gskay | 2007-11-21 04:42 | 政治と役所と業界
公務員削減論批判
我が国の公務員の数は、減らさなくてはいけないという風潮になっているように思います。また、公務員の人件費を抑えるべきだという意見も強いように思います。

国際比較をした時、一定人口あたりの日本の公務員数は、決して多い方ではありません。これは、国家公務員と地方公務員に加え、公営企業や公社などを含めての比較です。その人件費についても、歳出に占める割合でみても、GDP比でみても、決して高くはありません。

また、歳出全体についても、社会保障費をふくめた税負担についても、GDP比で国際比較して少ない方です。

政府の歳出をおさえ、公務員を減らすことを、無批判に歓迎することが妥当かどうか考えてみる必要がありそうです。ちなみに、小さな政府の手本のように言われるアメリカは、公務員数についても、人件費についても、日本よりもはるかに多いというのが実態です。

歳出も少なく、公務員数も少ないことから、他の国に比べ、日本国民の政府への期待は少ないといえるかも知れません。他の国なら政府がやっている仕事を、日本では政府が行っていないことになります。「官から民へ」というキャンペーンも、はじめから「民」が担っていたというのが実態で、「官」の割合は元々少なかったということになります。

にもかかわらず、さらに公務員を減らし、歳出を減らすというのは、世界的な水準からみて特殊なことのように思われます。

公務員への風当たりの強さは、負担の大きさという合理的な根拠に基づくものではないように思います。財政上の問題も重要ですが、むしろ、これまでの失策や不作為があまりに影響が大きく、もはや、信頼を保ち続けることが困難になっているということを象徴しているのではないかと思います。

ここで、本当に、公務員の数を減らしていいのかどうか、歳出に占める人件費の割合を減らしていいのかどうか。

そうした方針は、失策や不作為へのお仕置きくらいにしかならないのではないかと思います。抜本的な改革とは言いがたく、また、そのために空洞ができてしまうとしたら、それは取り返しのつかないことにつながります。

一見、公務員を減らすことは、財政や社会的な情勢を見極めた方向性のように見えます。しかし、本当のところは、公務員の中身の問題や質の問題、あるいは体制や権限、責任の問題を、数の問題にすり替えてしまった間違った議論なのではないかと感じています。

また、現在の「官」の業務を「民」に移すことは、他にやらなければいけないことがたくさんあるからこそ、必要なことだと思います。その前提で考えてみると、業務を移したにもかかわらず、「官」がやるべき次のことに着手できない体制が問題なのではないかと思います。
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by gskay | 2007-11-20 01:30 | 政治と役所と業界
価格差と中身の差(2)
6月27日に、「価格差と中身の差」 というエントリを書きました。あの時点では、ものを購入する立場からの視点しかありませんでした。価格差と中身の問題は、消費者としてものを購入する時に問題になるだけでなく、ものを販売したり、働いて収入を得たりする時にも重大な問題になります。

ものを購入する時、2倍のお金を出すと、2の二乗の満足が得られるところでは、4倍の満足度を提供しなければ、2倍の収入を得ることができません。

一方、ものを購入する時、2倍のお金を出しても、2の平方根の満足しか得られないところでは、1.414倍の満足度を提供しただけで、2倍の収入を得ることができます。

二乗になる国では、お金を使う人が有利です。平方根になる国では、お金をもらう人が有利です。

次に、投資と労働について考えます。

お金を使うことが有利な「二乗の国」では、自分で働くよりも、人に働かせる方が有利です。自分が働く限り、4倍の成果を出さない限り、2倍の収入は得られません。しかし、2倍のお金をはらえば、4倍の成果となって戻ってきます。

「二乗の国」では、汗水たらして働くよりも、投資を行うことが有利です。

一方、「平方根の国」では、その逆で、自分でやれば2倍にできるのに、人に働かせると1.414倍にしかならず、目減りしてしまうことになります。労働者は、2倍の成果を出せば、4倍の収入になります。

「平方根の国」では、汗水たらして働く方が、投資よりもてっとり早い収入アップの方法です。

このような問題は、経済や経営を考える人にとっては、当たり前のことなのかもしれませんが、そんな問題と縁が遠い私は、外国でお金を使ってみて、はじめてわかりました。

同じお金で、同じものがどれだけ多く買えるかということを判断の基準にすることの限界のように思います。この考え方には、質や満足は反映されず、また、質や満足の向上のために必要なコストが反映されません。さらに、質や満足の向上に必要なコストは、国や地域によって異なっていて、ひとつの考え方が、どこでも通用するというわけではありません。

労働コストが安い国に生産拠点を移すことも、フェアトレードも、グローバリゼーションも、この問題への配慮が足りないように思います。格差社会を論じる統計も、そこへの配慮がないために、実態や実感を反映することができていないように思います。

仕事の都合で長期滞在のために訪れた国には、多くの移民が、次々と流入して来ます。この国では、投資家はどんどんと豊かになっています。科学技術も最強です。しかし、景気のかげりの予兆のようなものがみえたあたりから、外国からやってきた人たちを含め、科学者や技術者、専門的な労働者の流出が始まっているようです。

これまでは、働きに見合った収入でないということに目をつぶっても、この国にいる魅力があったのだと思います。しかし、他の地域の発展により、この魅力にはかげりが出ています。

しかし、まだまだ、この国にあこがれる人が世界中にいる限り、移民の供給元には困りません。この国は、国や地域の経済格差を前提にして繁栄するという仕組みで成り立っているように思います。

ものやお金を、国や地域の間で移動させることは、どこでも活用している仕組みです。そこに加えて、人を移動させてしまうというシステムを活用することが、この国の繁栄の鍵であったと思います。しかも、投資に有利な仕組みは、これまでは、経済を安定させていくことができました。たとえ、産業が空洞化しても、対人サービスや、研究や管理さえ、この国に残っていれば、この国は繁栄することができます。

しかし、科学者や技術者、専門的な労働者の流出がはじまりました。この国に負けないくらいの水準の国や地域が増え、そこでは、価値の体系が異なります。「科学者や技術者、専門的な労働者」にとっては、「二乗の国」より「平方根の国」の方が楽に稼ぐことが出来ます。これが、この国の根本を揺るがすことになりかねないと感じています。投資をする人だけでは、繁栄を維持することはできないと思われます。

ところで、グローバリゼーションに、日本人は、ポジティブにもネガティブにも過剰に反応しているように思います。長期滞在中のこの国が、グローバリゼーションを主張する張本人ですが、この国の将来にとって、本当に合目的な方針なのか疑問に感じています。

昨今の様々な問題を、グローバリゼーションという外圧のせいにする風潮がありますが、本当でしょうか?あるいは、グローバリゼーションに乗り遅れると、国は滅びるでしょうか?

いずれも、「価値の体系」が国や地域で異なっているという事実を無視した極端な説であるように思います。

経済的に繁栄していて、かつ、「平方根の国」である我が国は、本来なら、「科学者や技術者、専門的な労働者」にとって、あこがれの国であるはずです。しかし、彼らを積極的に受け入れる状況にはないように思います。

その一方で、なぜか、見返りが少ないと文句をいう内外の投資家の言葉ばかりに注目している。

そして、介護や福祉、看護のような仕事を、低賃金で外国人に頼ろうとしている。日本人にとって報われないと感じる仕事は、おそらく、外国人にとっても満足できるものではないという点を無視して。

我が国が繁栄することになった経緯はともかく、当面は、繁栄した「平方根の国」であるという前提でのグローバリゼーションへの対応が要だと思います。「二乗の国」の仕組みを導入するのは、とても大きな社会的な変化が必要であり、そんなことをしているヒマがあるとは思えません。

とりあえず、「科学者や技術者、専門的な労働者」のポストを外国人に開放するべきだと思います。そして、必要な職種であるにもかかわらず報われない職種について、報われる仕組みを整えることが必要だと思います。

内外の投資家の言い分については、彼らは都合のいいところを探したり、作ったりすることができるので、国をあげて、みんなでつきあってあげる必要はないのではないかと思います。

国際的な問題について、「公」の力を注がなくてはいけないポイントを、単なる国際的な価格差ではなく、価値の体系の国際的な相違から明らかにできるように思います。

それができる人を、私は、リーダーとして仰ぎたいと思います。
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by gskay | 2007-11-18 04:37 | いろいろ
2年
1年前の今頃、何をしていたのかを思い出すのは難しいのに、2年前の今頃のことは、鮮明に思い出すことが出来ます。

2年前のこの日から数ヶ月は、仕事を早退しなくてはいけないことが多く、普段はちっとも使わない携帯電話が大活躍してくれました。

周囲の人が大事にしてくれたおかげで、その後の1年以上にわたるスランプは、次のステップへの転換のための期間に変わりました。

おそらく、みな歳をとり、2年前と同じことをしている人はいないのではないかと思います。こんな状況に追い込まれ、知らないこともたくさん覚えなくてはいけなくなりました。もういい歳だと思っていましたが、こんな歳でも、人間は成長することができるということに気付かされました。

財布のことを考えると腹が立ちます。順調だったら、職場のポジションも違っていたかもしれません。

しかし、困ったことや、不便だと思ったこと、不愉快に思ったことはあっても、不幸だと思ったことはありません。

家内のおかげであり、隣人のおかげであり、職場のおかげだと思います。

そして、思っていたよりも、「公」というものが、身近にあって、頼りになるということに感謝しています。

と同時に、その「公」が抱える様々な問題点の深刻さにも気付きました。まだまだ、そんなことはできませんが、いつか、その問題点に取り組むことで、感謝の気持ちを示したいと願っています。
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by gskay | 2007-11-17 13:37 | 反省とまとめ