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国権(その2)
生命や財産についての判断について、最終的な主体は「国」だと思います。国よりも下位の主体は、個人であろうと法人であろうと、国の判断に従うものだと想定されているように思います。

生命に関しては、国は、死を強制することができます。刑罰では死刑が含まれます。軍事的な問題では、相手の生命を奪う行為が正当化され、かつ、死を前提とした行動が強制されます。

この強制を、個人や法人が行ったら犯罪です。

財産についても同様です。モノの価値を、ゼロにしてしまうことができます。基準を定めて、違法だと宣言すれば、そのモノについての「正常」な取引は不可能になります。また、所有についての紛争は、裁判所の判断が最終決着になります。

表面的には、国の力は絶大です。しかし、こうした国の権限は、取り締まりをきちんと行わない限り、確立することはできません。

アンダーグラウンドに非合法な組織ができて、非合法な行為を行うことによって利益を上げています。非合法な暴力行為や、薬品や金融などの非合法な経済行為。民事上の紛争への介入。

こうした非合法な組織との戦いこそが、国の力の確立には不可欠です。ところが、そこよりも、明確に禁止されているはずの侵略の心配や、安全を建前にした効果の乏しい規制強化に力がそそがれています。また、司法については、行政の下請けに成り下がり、本来の任務が果たされていません。

個人や法人が、建前としては、自力でやってはいけないことがたくさんあります。しかし、国が、「ひきこもり」をしているために、国の力が及ばない「空白」が増えています。

規制緩和についての議論の問題点は、規制や緩和の主体はあくまで国にあるということを忘れている点です。野放しにして、自力で勝手にやっていいということが規制緩和ではなかったはずです。あくまで、規制の手続きや内容の見直しにすぎなかったはずです。取り締まりは、強化し充実されるべきでした。

しかし、規制緩和を議論するうちに、国が主体であったことを忘れ、責任の問題が曖昧になり、あたかも、自力で勝手にやっていいというのが規制緩和であるという幻想を作ってしまいました。推進する立場にも、批判する立場にも、誤解がはびこっていると思います。

また、司法の改革が、現在のテリトリーから踏み出そうという意識が感じられないことに危機を感じています。法曹関係者の養成や、裁判員制度は、プロセスの厳格化には役立つかもしれませんが、これも、耐震偽装後の建築基準法改正と同じで、煩雑化とともに、責任を曖昧にする仕組みではないかと疑っています。今やるべきことは、プロセスの能率をあげることと、司法が担ってもいいはずの領域に進出することではないかと思います。

同様に、国連の軍事的な判断に従うという発想に疑問を感じます。

国際社会は、国同士の関係で成り立っているにすぎず、それぞれの国が主体となって判断しています。国際社会や国際機関という主体が、それぞれの国以上の力をもつ主体にはなっていません。憲法の想定もこの範囲にとどまります。

そのような状況で、判断を国連に無邪気にゆだねることは、国民を危険に晒すことになりかねないと思います。当面、あくまで、判断は、国のレベルで行うことを大前提を確立すべきだと思います。

もちろん、将来、国連が国以上の力をもった主体になることがあるかもしれません。また、それを実現するために努力する意味があるかもしれません。しかし、そのことと、現状との間には大きな隔たりがあります。

憲法も想定してないこの「空白」については、明確な態度を国として明らかにしなくてはいけないと思います。

国内的にも、国際的にも、国というものの存在の意味を弱めてしまうような方向性には、十分な配慮が必要だと思います。

国内的には、基準や規制の貧弱な根拠や、責任の曖昧さ、取り締まりのいい加減さや不十分さについて、反省しなくてはいけないと思います。国際的には、国連主体という方向性自体は有意義だとは思いますが、それを支え続けるだけの国のシステムは確立していないことを反省しなくてはいけないと思います。

今は、この国のあり方にとって、大きな曲がり角なのだと思います。しかし、判断が困難であったり、だれも責任をとろうとしないために、「空白」が広がっています。この空白の先について、私には、悲観的にならざるを得ないような条件ばかりが目につきます。

(このエントリは、かつて、唐突につぶやいた 『国権』 というエントリの続きです。不作為や無責任、全体主義についての最近のエントリをつぶやきながら、こんなことを心配していました。)
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by gskay | 2007-11-06 02:12 | いろいろ
安全の全体主義
私は、所詮、耐震偽装に巻き込まれた一市民。得意とする専門分野は、全く別のところにあります。得意分野であれば、論争は望むところです。しかし、そうでないところでは、よくわかっていない分だけ、ムキになってしまうかもしれないと感じ、自重しています。ただし、自分が直接体験した事実については譲れませんが……。

こうして、いろいろと考えてつぶやいていることによって、いろいろなことに詳しくなってきたと感じています。専門外であるため、一種のディレッタンティズムのような趣味や造詣のレベルだと思ったことがありますが、当事者であることを考えれば、そんな悠長な立場を気取ってはいられません。

ところで、国権とか国家ということについて考えています。また、全体主義についても考えるようになりました。耐震偽装に巻き込まれ、今までイメージしてきた全体主義とは異なる全体主義があるのではないかと感じるようになりました。

全体主義に対して、私は、独裁的で独占的で排他的、抑圧的な権力の集中を想像していました。しかし、これらは結果であって必要な要素ではないと考えるようになりました。まして、軍国主義化も、全体主義の本質ではないと思います。秘密警察の存在は、排他的で抑圧的になった時にうまれる表面的な存在ではないかと思います。(秘密が表面的というところが、転倒していて面白いと思います。また、公然の秘密警察でないと、秘密警察は役に立たない訳で……。このエントリとは関係ありませんが……。)

戦前の日本の体制には、強力な権威はあったものの、独裁者がいたとはいえないと思います。そういう点で、他の国に対して用いられる全体主義という言葉でくくることに抵抗があるようです。しかし、独裁を必要な要素から外しても、全体主義と感じられるものはあったのではないかと感じています。また、軍国主義化ばかりが問題視されるべき対象ではないだろうと思います。

全体主義は、誰も現実の問題に責任をもって対応しない時に、萌芽するのではないかと思います。結果として、不作為による放置にしても、暴走にしても、破綻状況を生みます。そこに、権威などに対する強迫観念をともないながら、問題や失敗を認めることが許されない状況が加わって、花が咲くのではないかと思います。

肝心の責任担当者にとって、責任が明瞭な時には、隠蔽する。

自らの責任が不明瞭な時には、責任が及ばないように、小手先の対応をするとともに、責任の所在をますます曖昧にする。

本来の責任担当者が放棄してしまった責任は、権威などの強迫観念をともないながら、より末端の担当者に移ります。末端は、本来の担当者の無責任にこりているので、責任を担おうとします。しかし、それが無理で、さらに末端に押し付ける。これがエスカレートすることで、責任の空白地帯が広がり、ますます歯止めがきかない状況が出現します。そして、最末端にまで転嫁されきった状況が全体主義の完成状況ではないかと思います。

中には疑問を感じてるいる人がいるのに、曖昧な責任関係の中で、みなが同じ過ちをおかさざるをえなくなった状態。その状態が、全体主義の背景にはあるのではないかと思います。

強迫観念によって、誰もが真面目に励んではいるが、誰もが、責任逃れこそが第一で、無責任で何もしない状況です。この状況では、公式な形の強制はないかもしれませんが、社会全体が同じ方向を向くことになります。

また、異なる方向を目指す人がいて、その努力が実をむすぶことは、多くの人にとって、これまでの努力に反します。このため、足並みを乱すことと位置付けられて許されません。

みなで無益な努力をしています。実際は、無力感にさいなまれ、自信も、将来への展望も見いだせない状況です。強迫観念に依存していることが、当面の安心を与えてくれます。ただし、長期的な視点からみれば、問題を先送りにし、抜本的な対策を遅らせるだけです。

私は、このような背景を考えているため、独裁者の誕生を警戒することも、軍備について敏感になることも、全体主義やその弊害への警戒にはならないと考えています。

全体主義は、適当な権威が必要であることもあり、独裁者を生みやすいかもしれません。しかし、全体主義自体が適切に対処しないと破綻する運命をかかえているので、その運命と、独裁の悪が混同されているように思います。

仮に、権力や責任の空白に独裁者が取り組み、抜本的な改善がなされたとしたら、その独裁者は、「悪」とはいえないのではないかと思います。しかし、大抵の独裁者も無力で、全体主義によって祭り上げられているにすぎないため、破局まで暴走して終わることになってしまうのではないかと思います。

第二次大戦までは、戦争への対処が、国の切実な問題の一つだったと思います。このため、全体主義は、軍国主義を表に出す形で発展しました。

「勝ちたい」、あるいは、「勝たねば」というところまでは、無作為も暴走もなく、現実的でいられたかもしれません。しかし、それが、「勝つはず」にすり替わり、負けることを想定することさえ許されなくなって、軍国主義を表に出した全体主義になりました。

新しい技術に背をむけ、陳腐になったテクノロジーを基盤にした無駄な厳格化に血眼になりました。また、目の前の失敗を直視することができず、負けるという状況に適切に対応することができませんでした。さらに、その責任が、一般国民に刷り込まれる形で押し付けられら、数々の民間人の悲劇を作りました。

さて、耐震偽装では、一連の責任追及も、法の改正も、安全の確保につながる努力であったと評価することは難しいと思います。陳腐になってしまったシステムにしがみついているといわざるを得ないと思います。

一方で、安全という至高の目標について疑問をさしはさむことは許されません。

議論が不利になったら、先に「安全のために」といえば、議論を有利に進めることができるような強い力をもっと言葉になっています。

「安全をめざす」ことが、「安全であるはず」にすり替わり、安全に少しでも疑問がある状況を許すことが出来なくなっています。安全をめぐる実態を、直視することができず、しかるべき対処を怠っている状況にあります。

耐震偽装の初期にあったバッシング以来、そこかしこに、安全を軸にした全体主義の萌芽を感じさせる空気が蔓延しているのではないかと感じています。その空気にの中にいる当事者は、皆くそ真面目です。しかし、自分の責任がないことを主張しているにすぎません。自分の無力や無能力には目をつぶりつつ。

軍国主義に発展した全体主義は、現実離れした愚かなシステムにより、軍人のみならず民間人の命まで粗末にし、築き上げてきた財産や文化を破壊しました。安全を軸にした全体主義も、現実離れした愚かなシステムに発展し、われわれの財産を冒すなどの弊害をまきちらしていくのではないかと危惧します。

処方箋は単純です。現実を直視し、責任ある立場が責任をとりながら、最善の方法を取り入れつつ、もしもの時に最悪の事態をさける準備をしておけばいいだけです。この単純な処方箋では、「絶対」の安全はありません。より安全な状況が目指されているにすぎません。

「絶対」ではないからこそ、みんなで努力しなくてはいけないし、責任者は責任を意識し、失敗があったとしても現実の問題として対処しなくてはなりません。

また、それを現実のものにするためには、必要以上の責めを執拗に加えることで、みんなが満足するというような醜い心構えを排除しなくてはいけないと思います。

我々自身の現状の限界を直視し、謙虚に取り組むことによって、テクノロジーについても、失敗への対処についても、より優れたものにしていくことができるのではないかと思います。
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by gskay | 2007-11-05 12:51 | 安全と安心
不作為
公的な組織が、やるべきことをしなかったことで悪影響ががでることと、やりすぎて悪影響がでることは、同じ背景をもつ問題かもしれません。いずれも不作為です。やりすぎは、ちょうど良いところで歯止めをかけなかったという不作為の結果だと思います。

目の前の問題に真剣に取り組むというシステムがしっかりしていれば、程度の差はあっても、それなりの対応ができると思います。しかし、目の前のことから目をそむけ、規則や制度、人間関係などを重視すると、やり続けることが自己目的になって、やるべきことをおこたったり、やりすぎに歯止めがかからなくなってしまったりするのではないかと思います。

目の前の現実から離れたところに力を注いでも、問題の解決には結局つながらない徒労になってしまいます。徒労だとあきらめられれば、まだ良いのではないかと思います。

目の前の問題とは別のポイントを重視しているため、それを満足させるためには、問題が改善していないという現実を認めることは許されません。あげくのはてが、隠蔽ではないかと思います。悪事を働いているということよりも、どうにもならない事態に陥っていることに耐えられないと感じているからできることではないかと思います。

結局、本来の目の前の問題を大切にしていないため、不作為が積み重なってしまうのだと思います。

どのような問題があって、どのような目標があって、どのような方法をとるべきかを考えれば良いだけなのに、そこには力は注がれません。

目標が達成されていることを過剰に意識しすぎて、目標が達成されていないという事実から目をそむける。

従来の方法で対応できない問題なのに、新たな方法の検討には目をつぶり、厳密化やしめつけによって対応しようとする。

どうしても辻褄があわなくなったら隠蔽する。

規則や制度、人間関係は、仕事に励む動機にもなります。しかし、目の前の問題よりも優先してしまうと、それは、本来なすべきことに対しての不作為の元凶になってしまいます。
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by gskay | 2007-11-04 13:38 | 安全と安心
目標と失敗
「しなくてはならない」という目標や義務を定めた時から、それが達成できないことが「悪」になります。達成されていないことは許されないことです。許されないことだとしても、そのような状況は出現してしまうかもしれません。達成できていない状況や失敗という状況が出現した時の対応をおろそかにしてはいけません。

許されない「悪」は、存在してはいけないから「悪」なのですが、それは、存在して欲しくないから「悪」なのであって、存在しないわけではありません。逆にいえば、存在しているために「悪」と認識されます。存在しうる「悪」に対する対処を整えておかなくてはなりません。

軍隊は、戦争に勝つための組織です。近代国家、あるいは歴史上の国家も、戦争に勝つことがめざされていました。少なくとも、戦争で負けないように体制を整えてきました。勝利や不敗は、達成すべき目標です。必ず勝つということや決して負けないことは、前提ではなく、目標です。

戦前の軍隊も、戦争に勝つという目標をもった組織でした。ただし、その目標が達成されず、戦闘に負けたときに、どうするべきかということは、あまり準備されていなかったように思われます。負けた場合や負けそうな場合に、被害を最小限にとどめたり、少しでも有利な形で退却するという発想が欠けていたように思います。

そのような準備を怠ってきた原因は、必勝・不敗という目標が、必ず勝ち、負けることはないという思い込みに変質し、それがエスカレートして、負けるということを想定することさえ許されなくなったことにあると思います。

現実に、戦闘に負けるという事態に直面し、想定に限界があったために、上手に事態を収拾することができませんでした。収拾することができなかったばかりか、さらに悲劇をまき散らしてしまいました。

負けることを想定することができなかったことが、民間人自決にもつながるシステムの欠陥であったと私は思います。

不敗という目標があり、負けることは「悪」だからといっても、負けた場合を想定して準備しておかないことは怠慢です。「万に一つ」に備えなくてはなりません。

また、不敗という目標が、不敗という前提に変質することが、進歩し変化している技術や環境から目をそむけることにもつながりました。装備やシステムを最新で最良のものに常に保つという努力を怠り、陳腐になった古い道具に固執し続けることにつながりました。

本来、問題は、単に最新のものに更新すれば解決できるはずでした。しかし、問題が指摘されるたびに、古い道具についての練度をあげたり、動員をかけるとか、管理をきびしくするとか、検定制度を整えるというその場しのぎの小手先の対応が繰り返されました。

目標が前提に変質し、同時に、前提に反することがあってはならないし、あるわけがないという思い込みができてしまったために、現実を直視することができないという思考停止の状態にあったのだと思います。不敗という前提があるために、抜本的に問題を検討する努力を怠りました。

その結果、小手先にすぎないが大きな負担がかかる無益な努力に苦しんだにもかかわらず、当然のように負けた。そして、敗北への対応も稚拙で、混乱に拍車がかかった。

旧軍が陥ってしまったワナから、私たちの国の国家制度は、今も抜けられずにいるように思います。

軍事については、戦争に負けたことを契機に問題を直視しなくてはならなくなりました。本当に直視できているかどうかは別として、少なくとも、放置されることはなくなりました。

しかし、それ以外の分野では、誤った発想がいまだにはびこっているところが少なくありません。
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by gskay | 2007-11-03 01:03 | 安全と安心
強制
沖縄戦での民間人自決の経緯の教科書への記載をめぐる問題は、とても難しく複雑です。様々な意味で、うっかり取り上げることはできないデリケートな問題です。

歴史上の事実の問題として検証をすることは当然ですが、歴史上のことであるがゆえに困難が伴い、議論が必要になるのだと思います。また、いかに歴史を解釈し、いかに記載し、いかに伝えるかという態度が問われ、その思想的な背景にまで踏み込んでしまい、収拾がつかなくなってしまうのではないかと思います。

私は、さしあたって、軍による強制があったかどうかということと、「正式な命令」の存在の有無という問題は、必ずしも同じではないと思っています。強制があったという立場も、なかったとする立場も、同じことを別の立場から言っているのではないかと思います。議論のポイント自体に問題があって、すれ違いが生まれているのではないかと思います。

沖縄戦などの民間人自決は、公的な責任の所在がはっきりしないままに生じてしまった悲劇ではないかと思います。私は、この公的な責任の所在がはっきりしないとうこと自体が公的な「悪」であり、悲劇への歩みを止めることができなかった原因だったと考えています。

問題は、責任や役割という枠組みが崩壊してしまっていたことだと思います。曖昧な命令体制や責任体制のもとで、民間人自決のような重大な過ちがおきました。これは、国家の枠組みを逸脱し超越して生じた出来事です。ただし、国家機関の枠組みや権威を中途半端に残しながら。

軍の体制や意思決定のプロセス、戦争における民間人のありかたや軍との関係など、国家としての「正式」という基準で考えると不可解なことばかりです。民間人自決という大規模で非常に重大なことへ、国家の「正式」な手続きや責任という点について曖昧な状態でつき進んでいってしまいました。責任の所在を問うという議論の限界を越えた問題です。

特定の誰かが命令していたとしても、その命令に根拠があったとは到底思えません。なぜ、そのような根拠のないものを止めることができず、あのような重大な悲劇につながってしまったのかという点こそ問われなくてはならないと思います。

曖昧さが根底にある出来事であるだけに、強制があったという立場にも、なかったという立場にも根拠はあると思います。そこに固執して非難を続けることはお互いに平行線をたどるだけではないかと思います。曖昧が根底にある出来事であるがゆえに、責任という観点からの解明や断定は困難です。

視点をかえて検討すべきだと思います。これは、歴史をうやむやにしてしまおうということとは全くことなることだと思います。

現状のような視点で、強制があったとか、なかったとかということで議論をするのは、責任体制があったという前提の上で成り立ちます。その前提さえ崩壊していたという視点から考えることも必要ではないかと思います。これは、誰かが責任を放棄したという状況とも異なります。それなら、責任放棄の責任を問うことが出来ます。

責任がうやむやであるがゆえに、責任の所在を究明することには、あまり意味がないと思います。責任がうやむやになっていたという事態に一歩踏み込んで、この事態を批判的に理解する必要があると感じています。

この国では、肝心なときに、責任がうやむやになるのは、決してあの時だけのことではありません。本来の国のあり方などおかまいなしになり、あってはならない過ちをおかしがちです。

その時の状況や、そうなっていく過程を直視した時、信じられないような曖昧な状況が放置されています。それこそが、言葉のイメージとはうらはらに、「強制」の本性なのではないかと思います。
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by gskay | 2007-11-02 11:13 | 安全と安心
耐火性能偽装
「民間性能評価機関」が評価したと伝えたられています。「民間」であることに格別の意味があったとは思えませんが、「民間」による評価に対し否定的な風潮があるので、気にかかります。

それはそうと、厳格にするという方向性には限界があります。問題が生じないようにする努力は大切ですが、同時に、問題の発生にスムーズに対応する努力も要求されます。

耐震偽装では不毛な安全や安心に対するパニックが起こってしまいました。あまり良い前例ではないと思います。今回は、そのようなことがないように適切な対応がなされるように願っています。

耐震性能についても、耐火性能についても、問題が指摘されたとしても、何もない状態で建物が使えない訳ではありません。地震や火事という特殊な状況で、定められた基準を満たしていないということを意味しているにすぎません。この基準を満たしていないという事実を、安全とどのように関係づけて評価すべきであるかという点は、簡単な問題ではありません。

現在の基準を満たしていないがゆえに「安心できない」ということと、「安全でない」ということや、「危険である」ということは、必ずしも一致していません。そういう制度であるということを前提にして、冷静に対処しなくてはいけないと思います。

とはいうものの、「適法」な性能がないということは確かです。それに対しては適切に対処しなくてはなりません。

この国で建物の所有者になるということは、この「適法」を確保する義務も背負うことになります。その「適法」の確保のためには、売り主や施工者、設計者、監理者、それに検査機関、そして当然、このような製品を作った建材メーカーの責任を追及していかなくてはなりません。これは、黙っていれば「瑕疵担保責任」になどによって何とかしてくれるようなものとは限りません。(もちろん、資力がありあまっているなら、そんなことはせずに、自己負担で直してしまうこともあると思いますが……)

今回は、大手のハウジングメーカーが売り主になっているケースが多いようなので、しっかりとしたシステムでの対応が行われることを期待します。しかし、基本的には、現所有者の申し立てが必要になるわけで、それをきちんとできるように売り主や関係者が通告することが必要だと思います。

我が国の住宅は、一戸建てが主流であることもあり、この事例は、良い前例になるように期待しています。

ところで、この耐火性能偽装が、関係者そろって責任を負わなくてはいけないような重大な欠陥であるのかどうかは、裁判でもしてみないとわかりませんが、売り主も、この建材を利用した施工者なども、その覚悟で対応して欲しいと思います。

なお、耐震偽装では、施工の木村建設の責任について、少なくとも破産事件としては否定されています。ただし、その後、別の欠陥住宅の裁判で「重大な構造的欠陥があるなど違法性が強い場合」に購入者が直接契約関係のない建設会社や設計者にも賠償責任を問えるという最高裁の判断が出ています。そうしたことをふまえて対応すべきです。

「揺れるマンション」顛末記 : 施工や設計の責任〜最高裁

今回のケースについては、さすがに大手の業者が多いようなので売り主による適切な対応が行われると思いますが、そうでない場合、これが、「重大」であったり、「違法性が強い」といえるかどうかを問う事態に進展する可能性もあると思います。その場合、たとえ「重大」と判断されたとしても、施工や設計の責任は、「性能評価」に基づく設計や施工であるため、単純ではありません。

とにかく、所有者にとっては、面倒でやっかいな問題です。

今後、建材のレベルで、もっと深刻な問題が明らかになる可能性も覚悟しておかなくてはならないような気がします。

「ヒューザーのようなところでなく大手から買えば安心だ」とか、「マンションよりも一戸建て」と、さんざん非難されたことを思い出します。また、すでに否定されている「安物買いの銭失い」説もつらいものでした。そういう問題ではないと訴えてきたつもりですが、いざ、本当に思っていた通りのことが発覚すると、とても悲しい気持ちになります。建築基準法のシステムでは、大手だろうが、一戸建てだろうが、こうした違法性をさけることはできません。

ただし、問題発覚後の対応は、「違法性」とは別の問題です。

これについては、案外、資金力は重大な問題ではありません。ヒューザーの破産財団は、本当に破産という処理が妥当だったのか疑問がわくような規模でした。にもかかわらず、破産を申し立てられて破産しました。

そこから学ぶべきことは、パニックを乗り越える危機管理能力があるかどうかだと思います。これも「大手」かどうかとは、直接の関係はありませんが、「大手」にのし上がって、その地位を維持してる企業では、様々なノウハウが蓄積されているだろうと想像します。
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by gskay | 2007-11-01 10:28 | 安全と安心