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補償
血液製剤によるC型肝炎の被害に対し、行政的対応でもなく、司法による判断でもなく、立法によって解決策が示されたことは、手続きについても、内容についても、大胆な一歩だったと思います。ただし、今後について気になることがあります。

この法律の内容や発想を、今後のあらゆる問題に対処するための行政や司法の基準としていくべきではないと思います。内容からみて、あくまで、立法によって解決すべき問題として残しておくべきだと思います。

そもそも、血液製剤を発売した時点では、重大の副作用についてはわかっていないはずだと思います。その後、徐々に問題が明らかにされ、その問題への対処が必要になりました。問題への対処が必要であるにもかかわらず、当局や製薬会社は、適切に対応しなかったとされています。それが、重大な不作為であったとされています。

問題を認識しようとせずに放置したり、対処に遅れがあったことが、必要以上に被害を拡大させました。このグズグズしていたという不作為に対しては、立法の有無にかかわらず、責任についての追及が必要であるとともに、こうむらなくても済んだかもしれない被害については、補償していくべきだと思います。

その一方で、使いはじめて明らかになる副作用があります。重大な副作用があるような医薬品を世の中に送り出さないようにする事前の努力は最大限に行われているはずです。しかし、残念ながら、技術の限界によって、予知不能な不可避の副作用があります。これについては、誰にもわからない出来事であるために、責任の所在を明らかにすることは困難です。生じてしまった副作用について、現場の医療機関で最善をつくすことしかできませんでした。

これまで、血液製剤によるC型肝炎の被害については、このような見方から、一旦、副作用という問題が明らかになり報告されたにもかかわらず、当局や製薬会社が、的確に対処しようとしなかった責任を問う問題として考えられてきました。行政側が考えていた点も、司法が判断しようしていた点もその範囲にとどまっていたと思います。

副作用が認識されるプロセスが迅速であれば、被害を最小限におさえることができたはずです。迅速な対処により、わずかな人の健康被害にとどまっていた可能性があります。決して被害者の苦痛は放置してよい問題ではないものの、被害を受けた人がわずかであったなら、このように大きな問題にはならなかったかもしれません。また、被害の拡大防止に並行して、迅速で適切な補償がなされていたなら、被害者も訴え出るという苦労さえ必要なかっただろうと思います。

そのような発想の枠組みをこえた意図が、今回の立法にはあると思います。

今回の立法措置は、医薬品の副作用を完全に排除することはできないものの、医薬品の副作用への対応について大きな意味があります。副作用についての責任の有無という点から一歩踏み込んだ対応になっています。深刻な薬害があったという観点を重視して考えているように思われます。

副作用が明らかになってからの投与と、それ以前の投与では、予防できたかどうかという観点からみれば別のことになります。しかし、被害の悲惨さに差があるわけではありません。過失の有無や不法行為の有無という問題とは異質の問題です。そこが重視されているように思われます。

不作為によって被害の拡大を防ぐことができなかったという点については、国の担当者の責任を追及していかなくてはいけません。これは、従来の発想の延長ということができます。しかし、それ以上に、医薬品によって生じた重大な被害への対応について、国に責務があるということを宣言したことが、この立法のポイントだと思います。

今後、不作為によって被害が拡大してしまうような事態は、このような立法によって国の負担が生じるという前例になりました。国の負担を最小限にするためには、不作為をなくすことが必要です。行政の担当者が、事勿れ主義によって、問題を無責任に放置することを許さない条件が設定されていると思います。

加えて、被害の認定について行政が行わず、司法の場で行うことにした点も評価すべきだと思います。取り締まり権限を分離することにより、肥大化した行政の裁量の縮小につながります。それだけの能力が司法にあるかどうかは問題ですが、これは、今後の司法の充実を強化すればいいだけのことだと思います。

ところで、同様の問題が浮上した場合、あくまで立法府の政治の場で決着すべきとしておく必要があると思います。問題の深刻さをどのように評価するべきかということは、行政官僚が判断すべき問題ではありません。もし、そのような判断を行政の官僚に託したら、事勿れ主義による不作為をチェックすることができません。また、逆に、事勿れ主義が逆に作用して、無闇に乱発しすぎると、肝心な医薬品の開発に支障をきたしかねません。

あくまで、立法府で、問題の重要性を政治的に考慮して対処していくべきだと思います。

それを取り上げて対応できる議員がいるのかという問題もありますが、今回の対応を見る限り、日本の国会議員には、もっと多くを期待して良いように感じます。少なくとも、技術や科学、知識に関する限り、現在の官僚は能力不足です。官僚に任せておくよりも、国会議員に期待をかけて、さらに優れた人材を国会に送って行かなくてはいけないように思います。
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by gskay | 2008-01-31 12:44 | 政治と役所と業界
「議員への接触禁止」について
国の場合、政策を決める権限を持つのは国会や内閣であって、官庁ではありません。しかし、実際には、官僚が決めているという実態があります。その実態は、本来の姿ではないということを念頭に、「公務員の議員への接触禁止」を考えてみる必要があると思います。

また、地方議会と国会では役割や権限が異なります。議院内閣制をとる国の制度と、首長を直接選挙で選ぶ地方では制度が全く異なっています。

広く「口利き防止」という理由付けが行われています。これ自体は、国会から地方議会まで広く必要なことだと思います。そして、問題にしなければならないほどに、はびこっているのではないかと懸念します。

しかし、国会における「公務員の議員への接触禁止」の場合、口利きの問題以上に、議院内閣制を揺るがすような、内閣をないがしろにして、官僚と国会議員が通じてしまうような仕組みが問題です。これは、国の仕組みの根幹を問う問題であり、国権の最高機関であり、国民の代表が集まる国会の権威と、そこに依拠すべき内閣のあり方に関わる問題です。

今の国会は、絶大な権限を持っていると憲法では明言されているものの、実際は、あたかも、君主が主体の政治における市民議会のような位置付けになっています。時に「君主」に組することもあれば、対立することもあっても、決定する主体ではなく、みんなで知恵をあわせる場所にすぎなくなってしまっています。内閣についても、国会議員の名誉職のようになっていて、省庁の大臣というポストがあるだけで、本来の権限や役割はないがしろにされています。

口利きという国会議員からの働きかけよりも恐れなくてはいけないのは、官僚からの工作です。民主的に選ばれた議員が、民主的な議会のなかで調整を行いながら多数決で意思を決定して行くのが、本来の私たちの国のあり方です。しかし、今や、官僚が作った政策や法案をめぐって議論することばかりになっています。そのような状況で、官僚が自由に国会議員に接触するとなると、国会議員同士や与野党間の議論や多数派工作よりも、官僚による多数派工作の方がメインになってしまいかねません。

実際、そのようになってしまっているのではないかと思われます。そう考えると、口利きは、その見返りととらえると、もっと実態が鮮明になるのではないかと思います。口利き自体は原因ではなく、むしろ派生したものだと考えるべきではないかと考えます。

内閣の力を強化し、国会の役割を尊重する仕組みを目指して知恵をしぼらなくてはいけないはずですが、多くのメディアは、そうしたことに積極的ではないと感じています。

もちろん、地方議会にまで通じるような口利きについては、不適切な行為を排除しなくてはいけません。その不適切な行為については、国会と国の官庁の場合、国会議員から官僚への働きかけという問題に限定して考えてはいけないと思います。

トラックバックをいただいた、『市民オンブズマン 事務局日誌』のombuds さんの記事を読んだ感想です。ombuds さんが指摘する点は重大な部分ですが、そことは別の角度から、国と地方を分けつつ、国の特殊性について思ったことをつぶやいてみました。

(追記)
『市民オンブズマン 事務局日誌』には、私が前のエントリでとりあげた賠償の問題に対する、官邸の判断についてのコメントもありました(『市民オンブズマン 事務局日誌 : 公務員制度改革 「不祥事に賠償制導入」より「国民訴訟」制度を』)。

今は、「萎縮」の心配をすべきときではありません。「怠慢」や「無責任」、「能力不足」による「誤謬」や「錯誤」が問題になっていたり、被害を出しています。その点で、ombuds さん同様、私にも官邸や多くの政治家の発言を評価できません。

加えて、国の権限と表裏一体となっている官僚の権限が、様々な生命や財産への損害を与える可能性を秘めている点を重視しながら、ombuds さんたちが提起する「国民訴訟」については、しっかりとした形で実現して欲しい課題だと思います。
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by gskay | 2008-01-17 13:45 | 政治と役所と業界
公務員の責任
「公務員制度の総合的な改革に関する懇談会」に関連し、キャリア制度の廃止、幹部人事の一元化、政治家との接触の制限ということについては、広く取り上げられています。しかし、公務員の責任を明確にするという方向性は、あまり注目されていないように感じられました。大胆な提言だと思います。

公務員改革 不祥事に賠償制導入 政府懇方針 退職者の責任追及(産経新聞) - Yahoo!ニュース


1月10日8時2分配信 産経新聞

 政府の「公務員制度の総合的な改革に関する懇談会」(座長・岡村正東芝会長)は9日、在職中に国に損害を与える不祥事などが発覚した元国家公務員に対し、国が退職金返還などで損害賠償責任を負わせる制度の創設を答申案に盛り込む方針を固めた。現行制度では刑事事件に発展しない場合や、起訴されても禁固刑未満だったりした場合に国は退職金の返還を求められず、政府内で制度の見直しを求める声が強まっていた。

 懇談会がこうした方針を固めたのは、年金記録や薬害肝炎への対応で社会保険庁や厚生労働省などの問題が相次いだ事態を重視。懇談会はそれらを担当した国家公務員の責任を追及する、新たな厳しい制度の導入が必要との判断に傾いた。

 懇談会は10日の会合で答申案を協議し、今月内に福田康夫首相に提出する。政府は答申を受け、国家公務員制度改革基本法案(仮称)を今月18日召集の通常国会に提出する方針だ。

 退職国家公務員に損害賠償責任を負わせる制度は、会社に損害を与えた経営者らに対し、株主が損害賠償を請求する「株主代表訴訟制度」の公務員版といえる。具体的には、在職中の不祥事などが発覚した元国家公務員に対し、損害を受けた国が求償権を行使し、裁判所が支払い能力を勘案して損害額を確定する。そのうえで、退職金の返還と同時に、不足分は財産などを没収することが想定されている。

 懇談会での論議では「社会保険庁の歴代長官もこれに該当する」「現役時代のことは知りませんという『やめ得』は許さない。不祥事の抑止力にもなる」とし、賠償制度を創設すべきとの意見が大勢を占めていた。

 不祥事を起こした元国家公務員から退職金を返還させる仕組みづくりについては、総務省の検討会も協議している。

 答申案にはこのほか、政治家による口利きなど政官癒着を排除する目的で、閣僚や副大臣、政務官以外の政治家と国家公務員との接触を原則禁止し、接触できるのは新設する「政務専門職」に一本化することも盛り込まれる。また、省庁縦割りの弊害とされる「省益」にとらわれない公務員を育てるため、幹部人事を一元的に担う「内閣人事庁」の設置も明記される方向だ。

 採用試験で将来の幹部候補を選ぶキャリア制度についても廃止し、大学卒者以上の採用試験を「総合職」「専門職」「一般職」の区分で実施することなども盛り込まれる。

 しかし、こうした答申案の内容には中央官庁だけでなく、与党内の「守旧派」からも強い抵抗が予想され、答申を受けての政府・与党内の調整は難航が避けられそうにない。

無謬であるという前提があるなら、賠償のシステムなど要らないはずです。それが否定されているのだと思います。このことについては合理的だと思います。

行政の権限が無闇に肥大して行く一方で、その権限に能力が追いついていません。能力が低いのは、課題が困難であるという事情以上に、能力向上に真剣に取り組んでこなかったことが原因だと思われるので、少し厳しい要求が必要だと思います。そうでないと、低い能力の官僚が、大きな権力を振り回すという危険な状況がますます悪化していしまうでしょう。

しかし、責任を「無限」に要求するようなことになってはならないと思います。無限の責任が、無限の権限の背景になり、裁量を肯定する根拠になるようでは本末転倒です。いかに制限するかを考えるべきです。

また、曖昧なまま過大な責任を課すことは、かえって責任逃れや責任転嫁に力を入れるきっかけになりかねないと思います。表面的に情緒的に考えるのではなく、明確な目標を提示するべきだと思います。

公務員制度の改革は、立法や司法のあり方までを問う大事業だと思います。今まで官僚に任せきってきた裁量を必要とする事柄に関しては、内閣や国会が扱うということを明記しなくてはいけないと思います。そして、そうした任務にふさわしい人物を国会議員に選ぶようにしなくてはいけないと思います。
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by gskay | 2008-01-14 12:57 | 政治と役所と業界
公文書管理
公務員の嘘やデタラメは、虚偽公文書作成等の罪によって罰することができます。しかし、文書を行方不明にしてしまったり、使えないようにしてしまうことについては、厳しい処分の対象ではなかったようです。

また、問題をおこしてしまった場合の責任の追及にくらべ、不作為でしっかりと対応しなかったことに対する追及はゆるやかでした。

そんなこんなで、省庁で問題が発生すると、不思議と肝心な書類は消えてしまいます。あるいは、不作為だったということで、元から無かったとされます。

あまりに「絶妙」なケースもあり、様々なところで、隠蔽が行われているのではないかと疑われています。

このうち、不作為については、年金の処理の漏れの問題や、薬害への対応の遅れの問題により、重大であると認識されるようになりました。無かったことにするということ行われるとしたら、それは不正です。しかし、作成された虚偽公文書が存在する訳ではないので追及されずに済んできました。ところが、不作為自体が重大な問題であると認識されるようになっています。このため、不作為であったかのように見せかけることは危険なことになりつつあります。

そうすると、後は、肝心の文書が見つからないとか、使えないということにするという方法が残されます。

公文書管理を法制化へ、誤廃棄・紛失を防止(読売新聞) - Yahoo!ニュース


1月6日10時52分配信 読売新聞

 政府は、各省庁が必要な公文書を誤って廃棄・紛失する事態を防ぐため、文書の作成から保存まで一貫した手続きを定める「文書管理法」を新たに制定する方針を固めた。早ければ今月召集の通常国会に法案を提出する考えだ。

 海上自衛隊がインド洋での給油活動をめぐる航泊日誌(航海日誌)を保存期限前に破棄したり、厚生労働省が薬害肝炎の症例リストを倉庫に放置したりと、重要文書のずさんな管理が問題となった。このため、福田首相が公文書の管理体制の見直しを指示した。

 2001年の政府の重要公文書の保存に関する申し合わせでは、日常業務に使用する公文書は各省庁でそれぞれ保管し、一定の保存期限後(最長30年)、資料的価値の高いものが国立公文書館(東京・北の丸公園)に移される仕組みとなっている。ただ、各省庁の保管状況は、省庁ごとの規則に基づいているため、ばらつきがあるのが実態だ。

隠蔽目的に、作為的に文書が消されているようなことはないと思いますが、肝心な書類がなくなってしまうと、責任の所在が不明になるだけでなく、問題の詳細が不明になります。分析や対応に差し支えます。その結果、将来への対応を考える材料が失われ、教訓を残す事が出来ず、大きな損失です。

公務員に関する文書については、問題がおきて証拠が必要であるにもかかわらず文書を提示できない場合、公務員という身分の特殊性から、公務員に不利になるように規定する必要があるのではないかと思います。これは、刑事的な問題だけでなく、国や公共団体を相手どった民事における紛争においても原則とするべきではないかと思います。

現在のところ、証拠がないということで曖昧になってしまったり、泣き寝入りをしなくてはならないケースが少なくないと思います。

単純な民と民の紛争であるなら、自分に不利な証拠を避けるように工夫するとともに、いかに相手の証拠を隠滅させないように保全することができるかがカギになります。それと同じことを、国や公共団体、公務員に適用するべきではないと思います。

国や公共団体、公務員には権力や権限が付与されています。その点を重視し、国や公共団体、公務員を相手にした紛争では、証拠となる書類が無い場合、国や公共団体、公務員に不利になるようにすることを原則とすべきだと思います。

そういう仕組みになっていないため、書類の管理が杜撰になってしまうばかりか、肝心の書類が、なぜか行方不明や使用不能になってしまうのだと思います。

公務員が、アリバイのための書類作りに気をとられてしまうようになるという懸念もあるかもしれませんが、後からの検証が可能であることには、意味があると思います。もちろん、内容は不実であってはならないものの、各自の見解や意思が明示されることに意味があり、責任を明らかにすることに役立つと思います。

公務員は、いかに自分の判断が正しいかを文書に書き込まなくてはいけません。その一方で、不都合なことを無視したりすると、それは,不作為ということで責任を追及されることになります。

これまでも官庁は、文書主義でした。ただし、文書主義といっても、文書がなければそこに書かれているはずの内容は取り上げられないという文書主義であったと思います。このような文書主義では、文書を責任逃れや隠蔽の道具に利用することが不可能でありません。国や公共団体、公務員にとっては、不都合があった場合の隠蔽に便利な考え方です。

そのような文書主義を見直し、国や公共団体、公務員による提示が期待される文書については、提示する義務を強化するとともに、提示できない場合に不利な取り扱いをされるという原則があれば、もっと文書を丁寧に扱うようになり、肝心な書類が作られなかったり、行方不明になったり、使用不能になったりすることはないのではないかと思います。
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by gskay | 2008-01-10 15:22 | 政治と役所と業界
「消費者庁」
相次ぐ「偽装」の問題を、「消費者の安心・安全」の問題と考えること自体は間違いではないと思います。しかし、混乱する原因は別にあります。

混乱する原因は、行政の裁量による中途半端な対応です。

「偽装」をはじめとする不正な行為自体の処罰や取り締まりを的確に行う事と同時に、問題の後始末を的確に行うことが必要です。ところが、処罰も取り締まりも後始末も、行き当たりばったりです。不十分であったり、まと外れであったりして、何が問題の本質なのかという点は曖昧なまま、のど元をすぎれば熱さを忘れてしまうということを繰り返しています。

消費者行政を一元化=偽装問題の続発受け−福田首相表明(時事通信) - Yahoo!ニュース

1月4日17時1分配信 時事通信

 福田康夫首相は4日午後、食品表示や耐震偽装などの問題への対応について「国民生活に直結していることは、どこかでまとめて行政をするような形になってくれればいい。そういう方向に持っていきたい」と述べ、消費者の安心・安全を担う行政の一元化に取り組む方針を明らかにした。政府・自民党が創設を検討している「消費者庁」などを念頭に置いた発言とみられる。

問題の発覚が相次ぐことは、少なくとも問題が表面に出るようになったことを評価すべきだと思います。不正な行為が相次いで発覚したことについて、規制緩和の弊害だとか、道徳の乱れだとか、拝金主義だとか言われています。しかし、「偽装」などの不正とされる行為は、今に始まったことではなく、むしろ、これまできちんと取り締まりが行なわれてこなかったり、裁量で「お代官様によるお目こぼし」が行われ、重要視されなかっただけではないかと思います。

着実に前進していて、「偽装」などの不正が放置されない社会に向かっていると思います。その傾向の延長として、「消費者庁」が構想されているのではないかと思います。

この「消費者庁」については、「一元化」は、煩雑さを避けるためには必要だと思います。しかし、その一元化によって、新しいセクショナリズムが生まれることになりかねないと思います。縦割り行政による分断への批判に対して、「一元化」した省庁を作ることで対応するのでは、ますます細分化されてしまうのではないかと思います。

批判される縦割り行政は、省庁間の交流や調整が不十分であることが問題です。従来、各省庁の壁が厚すぎて、省庁の中に排他的な人間関係が出来てしまっているのではないかと思います。

また、大学や研究機関からの登用は最低限の技術や知識を維持するために、いまや不可欠です。不正として取り上げられた問題の一つ一つを丁寧に点検すると、制度の方に不合理な部分があって最新の事情に適応できていなかったり、取り締りや後始末にあたる官庁の能力や知識が不十分であるために、誤った判断を行っている思われることが少なくありません。

さらに、薬害への対応にみられた不作為のような責任感の欠如は、問題への対応を遅らせ、被害を大きくしてしまいました。耐震偽装では、責任回避のために、対応が混乱し複雑になり、問題の本質を歪め、さらに拙速で過剰な対応が国の経済に深刻な被害を与えてしまいました。

「消費」は、生活の隅々までを含むような行為です。そして、我が国の経済構造の中核は、産業と輸出から、消費へとシフトしています。経済は、消費次第とさえ言えます。

無闇にそのような重要なものを、今の官僚や官庁に任せかせることは適当ではないと思います。官僚や官庁のもつ病弊を処理してからでなければ、「消費者庁」のような組織を作るのは危険なことです。建築基準法改正による様々な影響以上の悪夢を見ることになると思います。
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by gskay | 2008-01-09 12:19 | 政治と役所と業界