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昨年の参議院選挙では、耐震偽装発覚当時の国交省事務次官が当選しました。ねじれ状態にあって、次回の衆議院選挙では劣勢が伝えられる与党の議員として活動しているようです。議員のサイトをのぞいてみると、たまに更新されてはいるようです。ただ、相変わらず、耐震偽装や建築についての考えは、よくわかりません。
道路局長経験者なので、道路財源の問題については、複雑な立場ではないかと思いますが、感心したのは、水防や砂防についてです。土木を通じた災害の防止への熱意を感じました。盲目的で観念的な完璧主義の安全追求志向ではなく、技術の限界や、経済力の限界を見据えて、一歩一歩確実に進めるような発想をしているようです。 かつて官僚として考えたことについて、議員として発言するのですから、お手のものだと思います。座る場所と発言する立場が変わっただけなのかもしれませんが、議員として、得意なことに力を注いで欲しいと思います。 ところで、この議員の活動を目にして、災害に対する備えでも、土木についての発想と、建築や住宅の発想には、大きな違いがあることをあらためて感じました。 土木は、もっぱら、「公」の仕事です。公費を用いて、作っては壊すことを繰り返しながら、災害が防ぐための営みが続きます。 一方、建築や住宅は、「民」あるいは「私」です。災害を防ぐための営みも大切ですが、本来は、生活のためのものです。そして、固有な財産としての価値があります。 防災のための営みを、ひたすら続けなくてはいけない水防や砂防と、住宅の災害対策とを、同じ発想で処理しようとするのは乱暴なことではないかと思います。しかし、あの時は、そうなってしまったように思われます。それは、彼が、土木のエキスパートで、土木の立場からの災害への意識が高かったことにも関係しているのかもしれません。 また、耐震偽装発覚当時、違法建築の問題と、起きてしまった災害や切迫した災害への対応が、ゴチャゴチャであったことも気になりました。これについても、土木による災害への備えを専ら意識していたすると、納得ができます。 災害に対する基本姿勢や考え方には、いろいろなものがあり、一つではありません。根拠となる考え方は、状況によって変わります。一つの考え方だけで対応をごり押しすると無理が生じてしまいます。だからこそ、複数の考え方が用意されているのだと思います。 あいにく、耐震偽装では、土木で培われた発想が強く出過ぎてしまって、異なる考え方のバランスの調整がおろそかになってしまっていたように思われます。その点では、リーダーとしての事務次官という立場の彼の業績には疑問を感じますが、今の立場では、得意なことに、とことんこだわることは、美徳だと思います。 目下、次の衆議院選挙が、どのようなことになるのか難しい状況です。得意なことを活かすことと、政治の情勢にうまく適応することは別のことです。今後、苦労があることと思います。 ▲
by gskay
| 2008-07-29 13:48
| 安全と安心
危険と隣り合わせということは、世の中にたくさんあります。危険は少ない方がいいのは確かですが、危険なことを排除していくことだけが、安全確保の方策ではありません。特に、教育現場では、危険にうまく対処したり、安全を確保するのための配慮を教えなくてはいけません。
事故への反省は必要です。監督や監視、指導が不十分であった可能性もあると思います。しかし、引用の記事の「飛び込み禁止」という通達は、「何もさせなければ、事故はおこらない」という消極的な対応であり、教育の内容からも、安全確保の面からも、責任を放棄しているように感じられます。
事故原因は、飛び込みの指導と監督・監視の不十分さの問題だと思います。この事故の責任は、厳しく追及されなくてはいけないと思います。責任者は、覚悟しておくべきだと思います。その厳しさには、事故の再発を防ぐ効果もあると思います。 しかし、その辺を有耶無耶にしつつ、ややこしい理由をつけた挙げ句に、「何もさせない」という方針が出されてしまうのは、過剰すぎる反応だと思います。 確かに、やめさせてしまえば、問題は起きないので、ある意味では「完璧な事故防止策」です。しかし、それでは、本来の活動が損なわれてしまいます。 「再発防止策」というものが、多角的に検討されることを期待するとともに、どういう意味があるのかわからない全面禁止措置は見直されるように望みます。 航空機事故などでの全面禁止の措置には、技術的な理由で、同じ原因による事故が懸念されるからこそ、意味があります。そうした措置とは、同じに考えてはいけないと思います。 ただし、おしおきのような意味合いで、飛び込み全面禁止措置がとられているのであれば、教育機関での問題であるだけに、話は別です。 ▲
by gskay
| 2008-07-25 23:45
| 安全と安心
社会通念上、挨拶や、お願い、お礼には、贈答がつきもののように思います。そうした行為は、民間であったなら、咎められるようなものではありません。もちろん、組織のルールとして禁止しているのであれば、そのルールには従うべきですが……。
引用の記事を読んで調子が狂いました。お願いの挨拶に行ったことと、5000円相当のお歳暮。「それだけ?」というのが最初の感想です。 しかし、問題は、額の多寡ではありません。「公務員」にかかわることだからこそ、許されないという原則が大切で、そこを重視すべきだと思います。
公務員への賄賂は、禁止されています。もし、禁止されていないなら、それは、ただのお礼や挨拶です。しかし、社会通念上の交際の常識の範囲であったとしても、公務員については、許されません。これについては、徹底した態度をとるべきだと思います。 それは、「公」というものが、そういう仕組みの上に成り立っているからです。 公職選挙法も同じような法律ではないかと思います。どちらも、些細なことでも徹底しなくてはいけないと思います。 そういう法律や、その背景にある思想が、我が国の「公」の基礎を形作っています。 我が国の権力は、金品で歓心を買うとか、暴力による威嚇などに、けっして影響されないことになっているはずです。 ところで、同様に、家柄も本来は影響しないはずです。個人の能力だけが問題になるはずです。ところが、問題になった教員採用をはじめ、家柄は、微妙なところで影響しているように思えます。おそらく、家庭環境が教育に密接に関係してしまうことは不可避だからだと思います。親から子供を引き離して教育するならともかく、我が国では教育は親の義務であるとされているため、親や家庭の影響は避けられません。 よくしつけられている人は、家庭環境が良いことが多く、採用試験でも採用されやすいのではないかと思います。そして、後付けの理由として、「あの先生の子だから」とか、「あの部長の子だから」という指摘をされたりするのだと思います。それだけなら、個人の実力の反映にすぎません。家庭の美風が、子どもの能力を高めるのは望ましいことです。結果として、特定の家柄の子弟が多くなることもあるかもしれません。 しかし、あくまで結果です。結果としてそうなってしまうという傾向を、前提と考えてはなりません。結果として、まるで家柄で選んだかのようになるかもしれませんが、断固として、家柄を考慮して選んではならないと思います。ましてや、それを隠れ蓑に、金品のやりとりをともなう不正などあってはいけません。 家柄というものには、好ましい側面もあるものの、「公」を堕落させる危険が含まれているように思います。機会の平等という観点だけでなく、「公」を堕落という観点からも、世襲的な仕組みを再点検する必要があるように思います。 ところで、教職員同士の交際でも、盆暮れや人事移動など、折々の贈答は、当然のように行われていることと思います。そうした付き合いを欠かすことは、非常識で無礼なこととされるのではないかと思います。そうした観念は、特殊なものではないように思います。 ただ、それが、エスカレートし、変質して、利害に結びつき、人事を不正に支配する慣習に変質し、額も巨大になってしまいました。これが異常であると気付かないわけがないように思います。しかし、それを誰も指摘することができなかったのは、人事上の利得以上に、「非常識で無礼」と言われないようにするためだったのではないかと思います。 引用の記事の新聞社幹部という人は、そうした異常さの外に居たにもかかわらず、巻き込まれてしまいました。この人が市教委部長を「よろしくお願いします」と訪ねたという話も、後で御歳暮を届けたことも、「公」にかかわる問題でなければ、礼儀正しさ以上のものではなく、著しく不適切なこととはいえないのではないかと感じました。 具体的に何かの便宜を図ってもらっていなくても、「お世話になりました」とお礼を言うのは、礼儀正しいことです。この新聞社幹部のした程度のことは、そのレベルではないかと思います。ただし、点数の「水増し」ということで、放置してはいけないと判断されたのではないかと考えます。それがどのような意味をもち、どの程度のことなのか、さらに、この幹部の行為と関係しているのかどうか、この記事からはわかりません。しかし、それが、関係していようといまいと、「その程度」だったとしても、私は、許してはいけないと考えています。 我が国の「公」が、金品に影響されないということを明確にする必要があると思います。公務員については、過剰なくらいに、取り締まるべきだと思います。利害の有無にかかわらず、金品のやり取りを禁止しても良いのではないかと思われます。それは、同じ職場内や、かつて世話になった上司であっても、禁止すべきだと思います。 おそらく、交際は窮屈になると思います。親戚付き合いさえも差し支えるかもしれません。だとしても、けじめをつけることが必要だと思います。そして、その分は、きちんと待遇をあげることで埋め合わせるべきだと思います。 これが民間であったら話は別だと思います。組織の規則や目的に反する事が無い限り、問題にはならないと思います。贈り物の習慣は、決して悪い事ではないと思います。とりわけ、伝統的な御稽古事などでは、習い事の内容と同じくらい、昇格の折のお礼の金品のやり取りなどのしきたりが、充実していたりします。 しかし、贈り物の習慣や意義と、「公」のあり方とは別です。 「公」においては、公平な税や、使用料などの実費以外には、やりとりがあってはならないと考えるべきだと思います。「貢ぎ物の多寡」で、処遇が変わったりすることがないということを明確にするために、徹底的に、公務員からは「贈答」を排除する必要があると思います。それは、内外を問わず、多寡を問わず、徹底すべきだと思います。 この汚職の問題は、「公」というものと、社会通念とのズレを考えるための材料が、びっしりと詰まっているように思われます。 ▲
by gskay
| 2008-07-24 10:39
| いろいろ
最初の耐震偽装物件の売り主が民事再生手続きを申し立てたというニュースがありました。引用の記事などでは、金融機関の融資が悪影響を及ぼしたと分析しています。マンションのデベロッパーは、一般的には、融資をうけて、土地を購入したり、施工や設計などの関連業者との取引をしています。その資金繰りが狂えば、すぐに経営に影響が出てしまいます。
サブプライムローン問題と、我が国の不動産向け融資が絞られていることの間には、直接の関係はないように思います。サブプライムローン問題に巻き込まれた金融機関の業績が悪化していて、それが融資を行う能力を下げているのではないかと思います。不動産に限定されない一般的な問題のように思われます。
この件については、マンション市況の悪化が重要だと思われます。資材の高騰なども追い打ちをかけていると思われます。そして、資金繰りという面からいえば、建築基準法の改正による混乱の影響もあるのではないかと想像します。 多くの建築関連の会社が、仕事の内容は優れているのに、資金繰りに躓いて倒れています。これは、建築基準法の改正によって、事業のスケジュールが大幅に変更になっていることに、うまく経営や融資が適応できていないことが原因だと思います。 融資を行う金融機関に、そうした状況や環境の変化に対応するだけの余力があるなら、融資のスケジュールを少し見直すだけで、多くは解決してしまうのではないかと思います。ところが、あいにく、サブプライムローン問題に金融機関が巻き込まれてしまったためか、それが難しくなっているようです。そのとばっちりが、このような事例につながっているように思います。 引用の記事では、最後に、耐震偽装による建て替え物件への対応が記されています。 この物件が、元建築士が偽装にのめり込んで行く契機になりました。そして、発覚後には、肝心のこの物件をとりあげず、ヒューザーや木村建設、イーホームズばかりを取り上げたために、人々の意識が偏り、問題が歪曲されてしまいました。そのような流れを決定付けた元建築士の国会での証言は、議院証言法違反で厳しく処罰されています。 建築確認の民間開放も、木村建設も、ヒューザーも、耐震偽装の脇役にすぎません。ゼファーもそうした脇役の一つですが、重要な役割をはたしていました。ゼファーのこの物件がなければ、この耐震偽装は無かったかもしれません。とはいうものの、あまり大きくはとりあげられずに済んできました。 今後、この会社は、民事再生のもとでの瑕疵のある建物の建て替え事業をどのように進めるのかという問題についても、取り組んでいくことになると思います。 ▲
by gskay
| 2008-07-21 22:09
| 真相 構図 処分
大阪府知事が、平日の日中に公用車でジムに出かけたとされる問題については、帰りにタクシーを使ったところが、筋が通らないと思いますが、他に問題らしい問題はないように思うのですが……。
引用の記事では、最後に取り上げられた発言に同感です。
知事になると、警護があるために、つい遠慮して、家族との外食もままならないという話をききました。日中に、ジムに行ったのは、そうした警護スタッフへの「遠慮」の延長で、気遣いなのではないかと思います。また、帰りのタクシーも同様の感覚で、遠慮と気遣いによって、「タクシーで帰れるから大丈夫」というレベルの発想をしたのではないかと、勝手に想像しています。 強いて問題として挙げるなら、「庁内執務」と公表されていた点で、これは、知事のスケジュールの公表の担当者の失態だと思います。 ところで、健康管理は重要です。知事のような役目についている場合、エクササイズなどを課業としてもいいのではないかと思います。 「中抜け」という批判については、批判の方に問題があると思います。 知事は、地方公務員ですが、特別職です。地方公務員法は、一般職のための法律で、「法律に特別の定がある場合を除く外、特別職に属する地方公務員には適用しない」となっています。一般職の勤務時間の規定も、職務専念義務も、兼業禁止も、適用されません。その分、オンもオフもなく、四六時中、「知事」でいなくてはいけないため、自ずと様々な制限を受け入れなくてはいけないようですが……。 この騒動をめぐる知事への批判はとるに足らないものばかりだと感じていますが、知事には庶民的な発想が染み付いていて、その発想が、知事を勤める上での束縛を息苦しく感じさせているのかもしれないと思いました。 さて、この知事は、弁護士出身で、テレビ出演で知名度を上げてきた人物です。耐震偽装に関しても、当時、コメントしています。私は、立場が異なるので、そのコメントの通りにすることがベストだとは思えませんでしたが、根本的な発想には共感できると思っていました。 「公的支援」に批判的で、「住民が自力で何とかするべきで、ダメでも自己破産で免責される……」という内容のコメントがありました。これは、自己破産の部分ばかりがとりあげられたためか、住民を切り捨てても構わないという発言なのではないかととられました。しかし、その「切り捨て」という解釈は少し違うと思います。 私も、「支援」という発想には抵抗がありました。「支援」という名目で、一方的に公的な機関の責任を有耶無耶にすることに疑問を感じていました。 知事の当時のコメントは、民事の問題として、所有者が自律的に問題に取り組むべきだという原則にそったものではないかと思います。その民事の問題の相手となる当事者には、国も自治体も含まれています。「外」から「支援」を行う立場ではありません。 民事の紛争として決着をつけるのが望ましく、その過程では、公的な機関の責任が明らかになるかもしれません。逆に、住民側が不利になることもあるかも知れません。仮に住民が力つきて破れることになっても、破産の手続きによって免責されるので、出直しは可能な仕組みです。 それを前向きにとらえて取り組んでもいいのではないかというのが、当時のコメントの真意ではないかと思います。加えて、特例の「貸し付け」の構想を発言しています。一方的な「支援」という発想とは異なるものの、住民を「切り捨て」るような発想ではなかったのではないかと思います。 また、自己破産に対する一般的な社会の評価と、弁護士としての原則的な理解とに、ずれがあるように思います。この部分については、一般的な庶民の感覚とはいえません。しかし、今から考えると、耐震偽装の初期の騒動は、自己破産を庶民の法的な武器として一般的なものにするチャンスであったのかもしれません。自己破産への不当な壁の高さを取り除くことができたかもしれません。 事件に固有な、基準の妥当性や、手続きの正当性、安全や安心への配慮が念頭にあったとは思えないものの、曖昧な形で中途半端に打ち出された「公的支援」の一方的な発想より、公平なのではないかと思います。ただし、表現に問題があって、そうした発想が理解される以前に、拒否反応が出ていたように思います。 知事のコメントの通りではないものの、結局、住民は所有者として自律的に取り組むことが可能になり、それぞれの物件でそれぞれの対応が行われています。苦労はあるものの、自己破産を進めなければ切り抜けられないような状況には、ほとんどなっていないと思います。これには、適切な公的な対応のおかげもあると思いますが、その対応は、当初の一方的な「支援」とは、大きく位置付けや形を変えたものになっているように思います。 そのあたりのことは、今や、メディアに一向にのらないので、世間ではほとんど知られていないことではないかと思います。きちんとした整理や評価も、まだだと思います。 ▲
by gskay
| 2008-07-20 02:50
| メディアの狂騒
大分県の教員採用の汚職は、汚職については徹底的な処分をするべきだと思います。しかし、採用された教員の処遇は別だと思います。
公務員採用は試験を行い、合格者を候補者として名簿に載せ、その名簿から最終的な採用が行われるのが通例だと思います。しかも、教員の場合、教員免許が必要なので、さらに一段階加わっています。「能力」については、解雇しなくてはいけない程のものなのか慎重に考えた方がいいと思います。
「全員」という極端な表現をしている一方で、「どこまで可能か」を、これから調査するということです。徹底的にやるという覚悟を示す目的の発言だと思います。実際の処分は、調査の限界によって、限られたものになるのだと思います。 記事が懸念するように、明確な基準を示すことから、すでに困難です。さらに、ここには、恣意性が入り込む余地もあります。きちんとけじめをつけず、長期間取り組むことになってしまうと、それが新たな問題の背景になりかねません。 仮に基準を作ることができても、問題となる事実を確定する作業が容易ではないと思われます。特定するために必要な資料が揃っているとは限りません。また、その資料の証拠としての妥当性を吟味してからでなければ、処分に用いることは出来ないでしょう。 そもそも、厳正な採用をできなかった団体が、そのことは棚にあげて対処しようとしているので、この組織の実力からして疑問です。徹底的に行うという宣言とは裏腹に、実際の調査や処分は、限られたものになることを念頭に置いているのかもしれません。 実際問題としては、今年度の採用については、対応できるかもしれないと思います。試用期間であると思われ、また、有効な候補の名簿があり、まだ採用されていない合格者もいると思うので、実施は難しくはないと思います。必要であれば、追加合格を出せば良いと思います。 しかし、昨年度以前のものは、試用期間をすぎているし、名簿の有効期限も過ぎているので、処分についても、不合格とされた人の採用についても難しいと思います。 この記事で取り上げられた採用取り消しや解雇への法的、制度的な問題点は重要で、手続きは難しいと思います。懲戒などは、その教師の今後の人生に影響するという点を軽視することも許されないと思います。違法行為を根拠にするなら、本人の違法行為を証明しなくてはいけないので、厄介です。また、連座は適用すべきではないと思います。 採用システムに問題があったという点に戻って考えると、この事件は教育委員会の問題であり、不正を行って採用を混乱させたのは、教育委員会の担当者です。誤って不合格となったとされる人たちへの対応は検討に値すると思いますが、教育委員会の過ちを、誤って採用されたとされる教師に押し付けるような方針には疑問を感じます。 加えて、能力を評価することも困難です。少なくとも免許を持っていることは確かです。また、試用期間が過ぎた人たちは、経験が加わっているし、研修などを受講しているので、能力は向上していると思われます。採用されなかった人たちで代替えができるとは思えません。 この方針が貫かれた場合、現場への影響は甚大であり、無用な混乱をおこす可能性があると思います。また、制度的にも逸脱があるように思います。 結局、やる気があるということを示すために、極端な表現をしただけである可能性が高いように思われます。だとしたら、無責任な発言で、対応に問題があるように思います。 耐震偽装発覚直後の、国のドタバタとした対応を思い出します。 ▲
by gskay
| 2008-07-17 22:19
| 政治と役所と業界
三菱自動車の欠陥隠しの裁判の中で、リコールに関連する虚偽報告の事件では、一審の判決は無罪でした。横浜簡裁では、国土交通省の担当者からの報告要求の妥当性が問題となり、担当者の要求が法律に基づく要件を満たしていないということで、門前払いの判決でした。
これについては、かつて、「揺れるマンション」顛末記 : 行政の裁量の限界、および「揺れるマンション」顛末記 : リコールというエントリで考えたことがありますが、リコール行政の当局の手続きも杜撰であったことが問題です。 なお、問題となるデータが隠匿されていたことは、一審でも認められていたことです。 仮に故意の隠蔽ではなかったとしても、摩耗や整備不良が原因だという結論は、結果として間違っていました。その間違った結論にいたる判断を問題にするのは不毛な議論になりかねませんが、きちんとデータを揃えなかったり、都合の良いデータだけをもちいたことは、科学的な判断や技術的な判断の基本的な態度の問題としても批判されるべきだと思います。また、結論にあたって、除外できない問題については保留にして、判断から排除すべきではありませんでした。 そういう判断の中身の問題はともかくとして、隠蔽という「罪」について、それを明らかにするための裁判のはずでした。ところが、その隠蔽以前に、前提となる行政の手続きに杜撰なところがあって、その報告についての公的な位置付けが曖昧になってしまっているという複雑な事情の裁判になってしまいました。
当局の杜撰な手続きについてどのように評価するかが、焦点の一つになっている裁判です。 「リコール対策室長らに権限」という点は、その通りだと思うのですが、その権限の行使の仕方が適切だったかどうかが、まず問題になっています。一審では、それが適切ではなかったため、被告の罪を問う事ができないという判断でした。二審は、行政の要求に不十分なところがあったとしても、「明白」という観点から、罪を問えると判断し、すでに虚偽であると認定された報告についての罪を問う事にしました。 どちらの判決にも納得できるところがあると思います。行政の手続きの杜撰ささえなければ、一審の無罪はなかったはずで、行政の当局の反省が必要だと思います。一方、行政の手続きの妥当性よりも、車両法という法律が定めている趣旨を優先するなら、当局からの要求は「明白」であるとみなすこともできます。自動車製造の会社であるので、法律や手続きを熟知していなくてはならず、言われる前から適切に対処することが当然とみなされてもいいようにも思います。 ただし、この「明白」ということ自体も、何を「明白」とし、何を「明白でない」と判断するべきなのか曖昧です。否定しようがない行政手続きが行われてはいなかったことで、「報告」の位置付けが曖昧になってしまっている以上、そこに対する配慮があってもいいように思います。 当局の要求や、「報告」の位置付けが、当局にとって都合が良いように「後だし」で恣意的な扱えるようなものにしてはいけません。しかし、だからと言って、法の趣旨にさからうようなことを見逃してもいいのかと言う問題もあります。これは、難しい問題で、そのための判断の基準がないために、一審と二審が異なる判断になったのだと思います。 その点で、最高裁への上告での判断が気になります。たとえ行政の手続きに問題があったとしても、罪は罪といえるかどうかを最高裁が判断することになるのだと思います。それが、今後の判断の前提になります。 また、もし「要求」が適切であったなら、正当な報告がなされていた可能性があるとすると、当局の責任も追及すべきところではないかと思います。しかし、それは、そういう規定がない以上,どうしようもないことなのだろうと思います。 ところで、当局と自動車製造会社を対立するものとして考えている限り、このようないい加減なことが生じてしまう事情を理解するのは難しいように思います。このような杜撰さなことが生じてしまう背景には、実は、当局と自動車製造会社に「馴れ合い」があるのではないかと思います。裁判では、当局と自動車製造会社の主張や立場は対立するもののように見えます。しかし、実際は、「馴れ合い」になっていたからこそ、行政もいい加減な手続きをしてしまったし、自動車会社も不適切な報告をしたのではないかと思います。 これは、裁判の行方とは関係のないことですが、あってはならないことが起きてしまった背景のひとつであり、後始末までも混乱させています。同様の構図は、あちらこちらにあるのではないかと思います。 ▲
by gskay
| 2008-07-16 10:12
| 政治と役所と業界
タクシー規制の再強化の方向性については、安全の確保や、運転手の労働の問題に直接介入するのなら意味があると思います。しかし、国土交通省の再強化の方向は、経営に関するもので、安全の確保や運転手の待遇の向上には間接的にしか影響しません。
加えて、法律による規制に先立って、通達によって規制を行うという方法が妥当であるなら、わざわざ法律で規制する必要さえないのではないかと思います。 この規制再強化問題は、何重にも重要な問題を含んでいるように思います。 本来、「規制緩和」では、「御上のお気持ち次第」の不明朗で行き当たりばったりで恣意的な規制や、経営を過剰に保護するような規制は、「緩和」というより、「解消」されなくてはならなかったと思います。それは、公平な競争を阻害するからです。しかし、その大切な部分が、ないがしろにされているように思います。
タクシー規制の再強化に関する多くの記事の中で、引用の記事は、手続きに対する疑問を投げかけている点に特徴があるように思いました。 通達の意義と、法律の意義を見直す必要があると思います。少なくともこの法律改正は法律案として提出されてもいないのに、あたかも可決しているかのような通達です。むしろ、通達の方が、既成事実として法律改正の前提になりかねないように思われます。これは、「法の支配」の原則にも、国会の立法機関としての地位にも反するのではないかと思うのですが……。「裁量」が入り込む余地が多く、この規制は、「御上のお気持ち次第」の規制のように思われます。 また、業者の経営に介入するという規制は、規制の責任も経営の責任も曖昧にしてしまいます。規制が成功したのか失敗したのかは、経営という要素が加わるために、はっきりとわからなくなってしまいます。また、経営の責任が曖昧になる結果、経営の問題として解決されなくては行けない問題が、解決されないままとなるばかりか、別のところに転嫁されてしまいます。タクシー業界の問題では、その歪みが、運転手という労働者に転嫁されることになると思います。 「規制緩和」の弊害として「格差問題」がとりあげられますが、「格差社会」に対するアプローチでは、業者の経営に対する規制緩和と、労働に関わる規制緩和とは区別して考えるべきだと、私は考えています。 労働に関する規制緩和の弊害についての議論は、私は納得できると感じています。社会保障の問題からみても、消費の面からみても、公権力による規制や介入は有効であると考えています。 しかし、既存の業者を保護するような「規制」については、経営の失敗を有耶無耶にするだけで、「格差問題」の解決にはならないばかりか、新たな泥沼にはまることになると思います。このタクシー規制の再強化は、運転手の待遇の改善に直接関わるものではありません。そして、安全の問題とも別です。 こうした点が、ゴチャゴチャです。少なくともこの規制強化については、「格差社会」への対策という理由は、都合の良い口実やすり替えで、あくまで、直接的には経営の保護です。このように経営の責任を曖昧にするような方向で規制するのは、私には、適切だとは思えません。労働の問題、あるいは安全の問題として、もっと有効で直接的な「規制」や「介入」を試みるべきです。 そして、その結果として生じる運転手の待遇改善や安全のための経費については、それを受け入れて経営するべきです。そこを誤摩化してはいけないと思います。 低成長であるからこそ、経営は責任を持って行われなくてはいけません。高度な経済成長をしている時なら、経営は何をやっても余程のことが無い限り失敗しないので、責任を意識しなくても何とかなったと思います。しかし、低成長では、競争の結果として、経営の失敗は明白になります。 その明白になった失敗の責任を、経営が負わず、労働者に転嫁してきたのが、今の格差社会の元凶だと、私は考えています。それに加えて労働に関わる規制緩和が、経営にとって都合が良かったために、経営の責任が表面化せずにすんできました。それでも、どうにもならなくなり、「規制」の再強化によって、経営を再び保護しようとしているように思います。 それが、公平で妥当であるかどうかという点では、問題が多いように思います。加えて、「格差問題」には、間接的な効果しかありません。漫然とした経営が許されてしまう素地を公的に作らなくてはならない理由は、私にはよくわかりません。 ところで、「規制緩和」の弊害を取り除くために、一部の「規制再強化」は避けられないと思います。しかし、その「再強化」は、やり方を誤ると、官僚に対する「規制緩和」になってしまうことが心配です。このタクシー規制の再強化はその一つではないかと思います。 規制強化に進むとしても、官僚の「裁量」や「無謬性」については、後からの検証が可能な仕組みが必要であり、規制の権限を野放しにしてはいけないと思います。官僚の規制の失敗は、大きな悪影響を残します。これについては、経営の失敗以上の責任を問うべきだと思います。もし、そのような仕組みが確立していれば、無闇に経営に介入するような規制はとりにくくなると思います。 ▲
by gskay
| 2008-07-15 07:51
| 政治と役所と業界
与党の公務員改革は、これまでのように「大きな進歩だが、中途半端」ということになりかねないと思います。それは、失望を生むのみでなく、将来に問題を先送りすることになり、破局につながりかねないと危惧しています。
また、与党では、衆議院の選挙制度を中選挙区にもどすことを目指す勢力が無視できないように思います。これは、これまでに実現して来た政治改革、選挙制度改革を逆行させるものだと思います。 それに対し、引用した小沢代表の発言は、与党の立場よりも大幅に踏み込んだものであり、私は好感をもちました。
耐震偽装では、民主党は、問題を解決するより、混乱させる方向であったと感じているので、私はネガティブな印象を持っています。政治的な問題として、議論もなく有耶無耶にならないようにと取り上げてくれたことには感謝するものの、取り上げた中身は良くはなかったと思います。 ところで、政治や行政のことを考えると、与党の公務員改革は中途半端だし、中選挙区復活をめざす姿勢は、選挙というものを通じて議院内閣制や二院制を考える時、逆行であると感じていました。 小沢代表は、小選挙区や比例代表という選挙制度を、きちんと理解している政治家ではないかと思います。今の選挙制度に移行する時にも、大きな役割を果たしています。 現在の選挙制度は、中選挙区における金権政治の権化のようにいわれる田中角栄が問題視し、改めようと考えた制度だと私はきいています。田中角栄は、中選挙区の闘い方を熟知していたからこそ、勝つために「金権」化するとともに、その仕組みが適当ではないと感じていたからこそ、小選挙区と比例代表という選挙制度を構想したのではないかと思います。 中選挙区は、金のかかる選挙を避ける事ができません。同じ政党の候補同士の闘いが金権や利権による政治の温床になります。その一方で、政策本位で多数を獲得するという努力はおざなりになってしまいます。 小選挙区であれば、政策を基準とした多数獲得のための競争になります。一方、比例代表であれば、支持に比例した代表を選出することができます。その組み合わせが中途半端であるものの、現在の選挙制度は、昔の中選挙区や、全国区にくらべれば、はるかに良いと思います。 引用の記事から、選挙制度の改革に続いて、議院内閣制の強化が行われるのだと感じました。 私は、首相公選よりも議院内閣制を強化するべきだと思っています。これなら、憲法を改正する必要もありません。そして、議院内閣制をとる限り、時にねじれる二院があることには大きな意味があると思っています。一方で、憲法を改正してでも首相公選にするというのなら、我が国には、二院は必要ないだろうと思っています。 私は、選挙制度が中途半端であることと、官僚に権限をありすぎて議院内閣制が弱いという実情をのぞけば、我が国の制度は、良く出来た制度だと思っています。しかし、あいにく、行政改革や省庁再編は、これまで、中途半端な成果しか挙げてこられなかったように思います。 それは、議院内閣制をとるにもかかわらず、政治改革と、行政改革や公務員改革を別のものであるかのように議論して来たからではないかと思います。 その点で、小沢代表に期待が出来るのではないかと感じました。ただし、この方針は、みんなに受け入れられるとは思えません。 官僚にとっては、内閣を飛び越えて議員に接触し根回しをすることができたことが、都合が良かったはずです。中選挙区の金権、利権型の政治家にとっても、ギブ・アンド・テイクがあったと思います。それが、根刮ぎなくなってしまいます。そこに、陰に陽に抵抗がおこることになると思います。 政策の中身というより、政治をどのように進めるかという枠組みの話であり、どのようなメリットがあるのか、なかなか実感できませんが、小沢代表の理屈に、きちんと耳を傾けるべきではないかと感じました。もし小沢政権が実現したなら、公務員改革と、政治改革が一気にはかどることになると思います。これまで,二つの別の改革だと思われていたものが、融合することで、しかるべき方向に進みだすのではないかと期待します。 ところで、国会議員の数を減らすべきだという議論がありますが、それは、問題がある国会議員がいるということが問題なのであって、そうした人が選ばれないようにするべきだという問題がすり替えられてしまっているのではないかと思います。 きちんと政府の仕事をするためには、国会議員の数を減らしてはいけないと思います。 そして、数より質が問題です。 将来的には、衆議院は、小選挙区を中心とし、内閣を組織する与党の議員が政府部内で働くという役割が強化されることを期待します。一方、参議院は、比例代表を中心とすることで少数意見を尊重し、政党間の調整するためのより政治的な議院になるべきだと思います。 ▲
by gskay
| 2008-07-14 12:28
| 政治と役所と業界
違法に第一に対応しなくてはいけないのは、建築主なのでしょうか?それとも現在の所有者なのでしょうか?
耐震偽装に巻き込まれて以来の疑問です。 耐震偽装では、所有者には「寝耳に水」でした。所有者は、かやの外でした。売り主であるヒューザーと、区からの通知があるまで、何も知らされませんでした。すでに、公的には「発覚」し、調査が行われていたにもかかわらず。 同様の違和感を感じる記事です。
建物は、必ず、誰かが所有しているはずです。建物への責任は、まず所有者が負うべきだと思います。問題は、所有者が主体になって解決すべきです。その上で、最終的な負担や損害などについて、売り主や建築主など、関連の業者に請求すべきではないかと思います。 売り主や建築主を第一の主体と考えてしまうと、「廃業」していた場合、是正されない可能性があります。 引用の記事については、基準に違反している点を是正するのは所有者であり、所有者が好ましいと思う方向で是正されるべきだと思います。その上で、そこで生じた費用が売り主に請求されるべきだと思います。売り主の都合で、是正の方向が決まるのはおかしいと思います。 おそらく、業者は、是正のための工事で、最も簡単で安価な方法を選択したいと思います。しかし、それが、所有者にとって都合がよいとは限りません。所有者は、きちんと交渉し、不都合については補償を求めるべきだと思います。 また、共同住宅についての意思の決定は、管理組合の場で行うべきではないかと思います。そうした手続きについての配慮もおざなりになっていると感じる記事です。 この業者に問題があるのか、この記事が書かれた視点に問題があるのかわかりませんが、耐震偽装で、所有者や居住者が不在でも、平気で手続きが進んでしまったことを考えると、単なる業者や記事の問題と考えることはできません。むしろ、役所や業界、そして多くの人々に、広く共通した発想なのかもしれません。 私は、こうした発想を適切だとは思いません。 ▲
by gskay
| 2008-07-14 10:54
| 揺れる システム
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耐震偽装発覚から、5年。建て替えが再開発事業としてすすめられています。
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